戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

マヤパン Mayapan

 メキシコ、ユカタン半島北部(ユカタン州)にあったマヤ都市。マヤの後古典期前期にあたる1150年(久安六年)ごろに勃興した。後古典期後期(1200~1539)におけるマヤ低地北部最大の都市であり、ユカタン半島北部の広範な地方に及ぶ政治同盟の首都であった。

ユカタン半島北部の中心都市

 民族史料によれば、マヤパンは、イツァ・マヤ人のココム家によって統治された。マヤパンの支配者は、メキシコ湾岸のタバスコ地方出身のカヌル家の人々を傭兵として招き入れて頻繁に戦争を行った。そして政治同盟を結んだ各地方の支配者の家族は、マヤパンに住むよう義務付けられ忠誠を誓わされた。

 後古典期後期のマヤパンの支配層は、彫刻を施した13の石碑や無彫刻の25の石像記念碑を建立。碑文の暦は、1185年(文治元年)から1283年(弘安六年)に相当する。無彫刻の石碑には漆喰が塗られ、その上に筆で図象やマヤ文字が描かれていたと考えられている。また彼らは主要なマヤの神々を造形した土器の香炉を大量に生産。広範な遠距離交易を展開した。

都市を囲む石塁と人口密集

 都市は全長9.1キロメートルにおよぶ石塁(石造の城壁)で囲まれていた。石塁の内部には40以上のセノーテ*1と、4千以上の建造物があり、1万2000人ほどが密集して住んでいた。その都市形態は、住居が広範囲に散在するそれ以前のマヤ都市とは異なっている。

 一方で都市の範囲は石塁の外にも広がっていた。最近の調査によれば、8.8平方キロメートルほどあったとされる。都市人口は計1万5000人から1万7000人と推定されている。

 マヤパンでは、大部分の都市住民を守るために時間をかけて近隣の採掘場や地山から採掘した石灰岩を加工して石塁が建造された。石塁は数多くの都市住民が定住した後に、既存の建造物や住居を繋ぐのではなく、それらを囲むように張り巡らされた。

 石塁の幅は3~5メートル、高さは1.5~2.5メートルほどあり、その上に木柵が設置されたと考えられている。石塁には12の門があり、そのうちの7つは分厚い石塁で守られた大きな門であった。敵の襲撃に対する防御が、都市計画において重要であったことがうかがえる。

都市中心部の神殿ピラミッド

 都市中心部の「エル・カスティーリョ」(別名「ククルカン・ピラミッド」)は高さ15メートル、底辺35×33メートルでマヤパン最大の神殿ピラミッドだった。これはチチェン・イツァの同名の大神殿を模したミニチュア版であった。チチェン・イツァの「エル・カスティーリョ」では、春分秋分及び前後に北側の階段に当たる太陽の光と陰とが、風と豊饒の神ククルカン(羽毛の生えた蛇神)を降臨させる。

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 マヤパンの場合は、冬至前後の1か月ほどの間に北側の階段に当たる太陽の光と陰によって、光の蛇が出現するように設計された。またチチェン・イツァの「エル・カスティーリョ」は、計365の階段が設けられた太陽暦の神殿ピラミッドとして名高い。他方、マヤパンの場合は、もともとピラミッド状基壇の4面にそれぞれ65段の計260の階段が設けられており、神聖暦の260日暦の神殿ピラミッドであった。

 マヤパンの「エル・カスティーリョ」は、2期にわたって建造された。1期(12世紀頃)の「エル・カスティーリョ」は都市の中心に建てられ、都市計画の上で重要な役割を果たした。発掘調査によって、1期には戦争に関連した漆喰彫刻で装飾されていたことが分かっている。半ば白骨化した3人の男性の立像が刻まれ、顔の部分が壁龕になっていた。壁龕には、実際に骸骨が置かれていた可能性が高いという。

都市内部での戦闘

 「エル・カスティーリョ」西側の円柱形の神殿の近くでは、頭蓋骨が陥没した受傷人骨や打首にされた人骨を含む少なくとも20体の集団埋葬が発見されている。頭皮が剥がされた受傷頭蓋骨の上と下には穴があけられており、メキシコ中央高原のナワトル語でツォンパントリと呼ばれる打首の陳列棚に置かれたと考えられている。

 「エル・カスティーリョ」でも、頭皮が剥ぎ取られ肋骨を受傷した人骨が出土。同神殿北側の階段へ向かう漆喰性床面の直上では、うつぶせに倒れた成人男性の遺体がみつかっている。

 都市中心部区画*2の広場の地表面からは、30センチメートル未満の深さで、少なくとも10体の集団埋葬が出土。灰の層で覆われているので、火にかけられたことが分かるという。チャート製石槍が2体の受傷人骨の胸に、1体の受傷人骨の骨盤に突き刺さっていた。もう1体はうつ伏せに埋葬されており、生きたまま縛られて埋葬されたとみられている。

 放射性炭素年代測定によると、その埋葬時期は1200~1390年の年代とされる。民族史料には、1302~1400年の時期にマヤパンの支配層の間で熾烈な内戦が行われたとあるので、この内戦かその前の時代に相当する。いずれにせよ、マヤパン都市中心部で接近戦が行われ、敗者が集団で埋葬されたことがうかがえる*3

 なおマヤパン遺跡では、2001~2009年の調査で収集された99,174の打製石器のうち9,839点が黒曜石、89,335点がチャートで製作されていた。このうちチャート製小型尖頭器(260点)、チャート製両面調整尖頭器(102点)と黒曜石製石刃鏃(75点)の計437点が潜在的な武器とされる。チャート製小型尖頭器と黒曜石製石刃鏃は主に弓矢、チャート製両面調整尖頭器は主に石槍として使われた。右手に石槍、左手に盾を持つ男性戦士の土偶も見つかっている。

滅亡

 民族史料によれば、マヤパンは1461年(寛正元年)にウシュマル出身のシウ家の反乱によって破壊され、ココム家の王や大部分の王族が虐殺された。「エル・カスティーリョ」には、意図的に破壊された痕跡がある。蛇の彫刻を施した円柱がばらばらにされて神殿ピラミッドの下に捨て去られ、神殿の後ろに配置されていた石造祭壇は地中に埋められた。

 マヤパン都市中央部が破壊された時に、ココム家の1人の王子がたまたまホンジュラスに遠距離交易に赴いていた。帰郷した王子は、生き残った家来たちと共に先祖が建設したチチェン・イツァ遺跡の近くのソトゥータに新首都を建設した。一方で、シウ家の人々はマニに新首都を設けた。こうしてユカタン半島北部は、マニ、ソトゥータ、ホカバなどの18ほどの小王国が割拠。戦争を繰り返しながら16世紀に至った。

参考文献

  • 青山和夫 『シリーズ:諸文明の起源11 古代マヤ 石器の都市文明』 京都大学学術出版会 2005
  • 青山和夫 『マヤ文明の戦争―神聖な争いから大虐殺へ』 京都大学学術出版会 2022

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マヤパン遺跡 from「写真AC」

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マヤパン遺跡 from「写真AC」

*1:ユカタン半島の低平な石灰岩地帯に見られる陥没穴に地下水が溜まった天然の井戸、泉のこと

*2:「エル・カスティーリョ」から見ると北に位置する建造物と神殿に面している。

*3:同じような時期、マヤパンの石塁に囲まれた都市の北東端でも支配層間の内戦が行われた痕跡がみつかっている。少なくとも20体の支配層の受傷人骨が切断されて、火にかけられた。この集団埋葬には計22点の折損したチャート製小型尖頭器・両面調整尖頭器、18,156点の香炉片、海の貝製装飾品、動物骨、実用土器片、チャート・黒曜石製石器などが遺体とともに埋められていた。