戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

サントメ(マイラープール) Sao Tome(Mayilappur)

 インド東岸のコロマンデル海岸の港市。古くはローマや中国とも通交した南インドパッラヴァ朝の海港として知られた。またヒンドゥー教やシリア派キリスト教の信仰の地として巡礼者も多かったという。16世紀にポルトガルが進出すると聖トマスの聖地とされ、「サントメ」と呼ばれるようになった。

古代からの海港

 マイラープールの名は、「孔雀(マイル)の町(プール)」の意味であるという。町の中心には、2000年以上の歴史を持つシヴァ派のカパリースワーラ寺院がある。

 古くからの海港で、プトレマイオスの地理書に「マイラルファ(マイラルフォン)の大きな港」としてみえる。3世紀末から9世紀にかけては、南インドを支配したパッラヴァ朝の海港「マイラプーラム」として繁栄。その国王は「マイラプルの守護者(マイライ・カーヴァル)」という称号を保持していたという。

 14世紀にはヨーロッパにもその名が知られていた。1375年(永和元年)にアブラハム・クレスケスによって作成された『カタルーニャ図」には、「ペルシアおよびインドの沿岸」の項に、コロンボ、カロカム、セテメルティと並んで「ミラポール」(マイラープール)の名前がみられる。

 イタリアのフィレンツェ出身のフランシスコ会宣教師ジョヴァンニ・デ・マリニョーリも、聖トマスの伝承を語る中で「ミラポリスの町」について言及している。マリニョーリは、1342年(康永元年)に元朝の首都・大都(北京)を訪れ、その帰路でセイロンに立ち寄った経験があった。

聖トマスの墓廟

 4世紀頃に古代シリア語で記された『使徒トマス行伝』には、キリストの12使徒の一人、聖トマスがインドの一国王グンダフォルスの招きでインドに渡り、王をキリスト教に改宗させたとする布教譚が記されている。

 マイラーポールには、この聖トマスを祀る墓廟があった。1291年(正応四年)、イタリア人宣教師ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィノは、海路で元朝に向かう途中、マラバール地方にあったとみられる大国「マバル」に立ち寄り、この町には「使徒聖トマスの教会があり、そこで2度にわたる奇蹟を体験した」と述べている。

 モンテコルヴィノが体験した奇蹟とは、聖者の墓廟の盛土を患部に塗るとてきめんに傷が治り、しかも削った土は翌日には元通りになっているというものだった。しかも、この奇蹟はキリスト教とにも、タルタル人*1にも、そして異教徒(ヒンドゥー教徒)にも同様に信じられていたという。

 同時代のマルコ・ポーロ旅行記でも、「聖トマスの遺体はマーバール地方のさる小村に安置されている」と記されている。この町は人口も少なく、表街道からも外れているので、商人の往来する者もないが、巡礼に訪れるイスラーム教徒とキリスト教徒の数は多かったという。この地方のイスラーム教徒は、聖トマスを非常に尊崇し、彼がイスラーム教徒だったと主張しているとしている。

 1449年(宝徳元年)、インドを広く旅したイタリア人旅行家ニコロ・コンティは、聖トマスとマイラープールの町について下記のように言及している。

聖トマスはネストリアン(ネストリウス派キリスト教徒)と呼ばれる異教徒に崇拝されており、このマレアプル(マイラープール)の町にネストリアンが1000人も住んでいる。

 この聖トマスの伝承は16世紀まで続いてた。16世紀初頭に南インドのケーララ地方に滞在したポルトガル人ドゥアルテ・バルボザは、下記のように記している。

チェラマンデル(コロマンデル)とその国々をさらに離れると、海辺に古びて人気のない小さな町にたどり着く。かつては極めて大きく壮麗であったマイラプルと呼ばれる町で、ナルシンガ王(ヴィジャヤナガル国王)の属領となっている。ここにはかの有名な聖トマスの遺骸が海近くの小さな教会に葬られている。

マイラプルの地には多数の巡礼者が訪れるが、中国人の巡礼者は、聖トマスの遺骸の腕を記念に持ち帰ろうとして刀で切り取ろうとした。だが聖トマスは廟から現れてこの手を取り戻し、巡礼者は二度と刀を振るうことができなかった、かくして、ムーア(イスラム教徒)も、中国人も、ヒンドゥー教徒も灯明を絶やさず祈願した(『ドゥアルテ・バルボザの書』)。

ポルトガル人の進出

 1520年代からポルトガルマイラーポールに進出する。同地のポルトガル人居留区の近辺は彼らによって「サントメ・デ・メリアポル」(マイラーポールの聖トマスの町)と名付けられた。

 聖トマスが殉教したと伝えられる丘は「聖トマスの丘」と名付けられ、そこから十字架の刻まれた石碑が発見されたという。その跡地には、1523年(大永三年)から25年(大永五年)にかけて聖トマス教会が建立された。聖トマスが伝道と瞑想にふけったという洞窟のある丘にも1551年(天文二十年)に教会が建てられ、海岸近くの聖トマス大聖堂には、聖人の遺骨や遺品が納められた。

 1545年(天文十四年)、サントメにイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが来訪。ザビエルは同年11月10日付のイエズス会本部宛の書簡に、「サントメには100人以上のポルトガル人が住んでいますが、彼らは皆妻帯者です。大変敬虔な教会があり、そこに聖トマスが葬られていると人々は信じています」などと記している。

 サントメ在住のポルトガル人ミゲル・フェレイラも、1546年(天文十五年)6月の書簡で下記のように述べている。

サントメには7、800人が住んでおり、ネガパタムには600人あまりが、そして、マスリパトナムなどの港には150人から200人が、船には1000人以上のポルトガル人が生活しております。

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 ポルトガルの商船・艦隊の船上で居住する兵員を別とすれば、この地域ではサントメがポルトガル人の最も多い町であったことがうかがえる。

ベンガル湾の貿易港

 サントメ(マイラープール)にポルトガル人が進出しはじめた頃、インド東岸の主要な港は、サントメとその北にあるプリカット(パラヴェールカードゥ)であった。ここから北東に航路を取って、イラワジ川デルタ地域のコスミン、ビルマ南部のペグー、ダゴン、そしてマルタバンにいたる。

 この交易路はすでに15世紀末から、フィレンツェヴェネツィア、ジェネヴァのイタリア商人によってしばしば利用されていた。特にポルトガルと提携していたフェイレンツェ商人は、ペグーに産出するルビーなどの宝石類を求めて多くの代理人を送っていた。

 1570年(永禄十三年)、イタリアの商人チェーザレ・フェデリッチは、サントメの出船、入り船について、下記のように述べている。

毎年サントメからペグーへキャラック船が出る。それは9月の10日か11日、遅くとも12日には出港する。この船はビルマに到着するが、同じ時期にベンガルを出港した船とともにコスミンという港で合流する。

 ペグーの主要な交易品は、ルビーの他に銀、米、ラック染料であった。ラック染料は、香料に次いで重要な交易品であり、1517年(永正十四年)にインドからリスボンに向かった帆船には、6万6443キロものラック染料が積載されていたという。

 またトメ・ピレスは『東方諸国記』において、コロマンデル地方の諸港から東南アジアのマラッカに衣料品や各種の織物を積載した交易船が毎年来航する状況を記している。前述のイタリア商人チェーザレ・フェデリッチも、「400人余りの船員、多数のムスリム私商人、密輸入の胡椒を満載した船」が、マラッカからサントメに向かっていたと述べている。

 1600年(慶長五年)頃、サントメは長距離海上交易の拠点として繁栄の絶頂期を迎えた。

サントメの要塞化

 17世紀初頭、オランダがマスリパトナム、次いでプリカットに進出。サントメでは、オランダ人や周辺の領主(ナーヤカ)らの侵攻を防ぐため、町の周囲に壁をめぐらすなどの要塞化が図られるようになる。

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 なお要塞化以前のサントメの様子について、17世紀半ばに刊行されたオランダの記録にみえる。当時は町の周囲には壁もなく、海岸と内陸の両側は開かれていた。サントメは2つのブロックに分かれていて、その一つは現地に定住しているポルトガル人(カサード)やメスティソポルトガル人と現地人との混血)、それにアルメニア人の居住地区であった。この地区は、ルツ教会を中心に、石造りの住居が立ち並んでいた。

 他方、小川を挟んで北側にある「原住民地区」には、ヒンドゥー教徒住民の他に、サントメ港での関税徴収にあたったヴィジャヤナガル王国の大官職アディカーリや、チュリアと呼ばれる南インドイスラム商人も定住していた。

 要塞都市となったサントメについて、1630年代の『ポルトガル領インド国史』を著したアントニオ・ボカッロは、次のように詳細に描写している。

海側は完全に壁で囲われ、海べりの居宅に沿って築かれた壁によって、海と陸地が切り離されている。聖トマスが住んでいた太陽の家と呼ばれる寺院のある、このサントメの町は海から半リーグ(2.5キロ)も離れたところに造られたが、すでに波によって侵食されていた。

(中略)町を囲むこの壁は、胸壁も含めて高さ5ファゾム(9メートル)、てっぺんは幅5パーム(50センチ)あり、海に面して3つの土塁ー北側にはセント・ドミニクの、真ん中には大砲を据え付けた覆い付き銃眼(?)の、そして南側にはセント・ポールの土塁ーが築かれている。

セント・ドミニクの土塁の向こうには、市内に通じる4つの門扉のうち、その一つがあって、その上には土塁に似た見張り台が築かれ、2門の砲を据えることができる。さらに、その向こうのサンチャゴの土塁には第5番目の門扉があり、<アントニオ・ダ・コスタ>の土塁、<セント・アウグスティン>の土塁、<鍛冶屋>の土塁が続く。

(中略)このように、砲と見張り台のついて門扉は、全部で12あり、それぞれ100ペース(80メートル)ずつ離れている。また、陸地側では70〜80ペース(50〜60メートル)の距離を取って土塁が築かれ、要塞の壁を防御している。

町の外側には多数のキリスト教徒がおり、その数は6000人ばかりで、彼らは漁師や、要塞の中の住民のために仕事をしている。なかでもマチュアカーストの連中はかなり多い。彼らは水夫で、沿岸をパトロールするどんな船にも乗り込んでいる。

インディア領のポルトガル

 ポルトガルのインディア領で勤務を終えたポルトガル人は、原則として任期満了後は帰国しなければならなかったが、現地の女性と結婚すれば残留することが認められていた。この現地に住み着くようになったポルトガル人は「カサード」(既婚者を意)と呼ばれた。サントメには、このポルトガル系の居留民であるカサードが多く住んでいた。彼らは武力の保有や交易上の特権が認められ、私貿易に従事していた商人が主であったという。

 1626年(寛永三年)のリストによれば、名前の挙げられている「カサードの名士」だけでも、マラッカに52名、サントメに26名がいた。前述のアントニオ・ボカッロの記録によると、「カサードはサントメ要塞の壁の外側で菜園や石造り・石灰造りの邸宅を持ち、そこではインドで取れるあらゆる果物が実って」いたという。

オランダ勢力との競合

 一方で17世紀初頭以降、ポルトガル東インド交易は、次第にオランダ勢力に押され始める。

 1617年(元和三年)5月8日、オランダ東インド会社プリカット駐在上級商人アドルフ・トーマスは、1616年(元和二年)に8隻のフリゲートからなるポルトガル艦隊がプリカットのオランダ商館攻撃に向かったが、同艦隊は現地の国王の援軍を受けられなかった、と本国に報告している。また、同年にポルトガルイスラムの商船を攻撃するため6隻のフリゲートを派遣するも、ペタプリ以北に進ことができなかったことも併せて報告している。

 また同じく1617年(元和三年)8月31日、マスリパトナム駐在のデ・ヘイズは、本年には25〜30隻の現地商船がプリカットへ入港見込みである一方で、サントメには1隻の船も入港しそうにないと報告。1619年6月21日にも30隻の商船がプリカットに来航する一方で、サントメには1隻の船も入港しなかったと伝えている。

 1621年(元和七年)5月22日付のマスリパトナム駐在アンドレイ・スーレイの報告でも、「本年はマラッカ、ペグー、ベンガル、オリッサの沿岸からサントメに、まだ1隻の商船も入港していない」と記されている。

 サントメの衰退は明らかであった。当時のポルトガル人歴史家ダンヴェルスも、オランダがメリアポール(サントメ)を攻撃目標とし、この地域を封鎖し、やって来る商船を拿捕していると述べている。1635年(寛永十二年)2月24日現在、インドで最も豊かな町であったサントメは、今や人口も貿易も減退していたという。

 インドを旅行中のアルベルト・デ・マンデルスローは、下記のように記している。

セント・トーマスの町には、600人ばかりのポルトガル人とメスティソ、その他、数人のアルメニア人商人が住んでいる。

(中略)だがナルシンガ(ヴィジャヤナガル)王国の首都であった時代の栄華はすでになく、この町にはポルトガルの太守もおらず法も政治秩序もない。様々な不法が何の科もなく日々まかり通っている

サントメの終焉

 1640年(寛永十七年)、イギリス東インド会社はサントメ北方のマドラスの地にセント・ジョージ要塞の建設を開始。翌年、コロマンデル海岸における主商館をマドラスに移した。

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 この頃、前述のようにサントメは衰退し、仕事を求める貧窮したポルトガル人(ポルトガル系居留民)が多数存在していた。このためイギリス東インド会社マドラス商館長は、免税特権などの好条件を提示して、サントメのポルトガル人のマドラス定住を誘致。彼らが仲介商人や通訳、あるいは兵士として、新興都市マドラスの様々な役割を担うことになる。

 17世紀末頃、ポルトガルは現地のムスリム勢力と交渉して、サントメの租借権や周辺地の貸与、サントメの要塞化の権利を認める勅許状の獲得を目指していたが、結局失敗に終わった。

 そして1697年(元禄十年)1月、ムガル朝の軍隊によってサントメ要塞の堡塁や大門、壁が解体されるに至る。イギリスの記録によれば、要塞の解体について、同国がムガル朝側に助言を与えていたという。ここに都市サントメの歴史は終焉を迎えた。

日本とサントメ

 正徳二年(1712)刊行の『和漢三才図会』巻14「外夷人物」には、インド諸地域についての記述がある。そこに「聖多黙(さんとめ)」の項目もあり*2、「未だその国の人が日本に来たことはない」としながらも、「その地の産物はシャムや中華の人が往って交易し日本にも来る」とある。また産物として鮫、木綿縞、織物、鹿革を挙げている。

 このうち木綿縞(木綿の縞織物)は、ポルトガル船やオランダ船によって日本にもたらされた。桟留(さんとめ)縞、唐桟(唐渡りの桟留縞の略)、あるいは奥縞(嶋)と呼ばれた縞織物は、江戸中期には江戸を中心に武士層や富裕な町民に普及し、日本国内で模造品(川越唐桟)が作らるまでに至った。

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参考文献

和漢三才図会  巻十四「外夷人物」聖多黙(さんとめ)
国立国会図書館デジタルコレクション)

*1:当時、交易の為にコロマンデルに来航して、そのまま定着した中国人であるともいわれている。元朝の時代、中国からしばしば交易商人が到来しており、南インドに住み着いた者もいた可能性がある。

*2:他に榜葛刺(べんがら)、莫臥爾(もうる)、印第亜(いんでや)、麻離抜(まりは)、故臨(くりん)、注輦(ちゅうれん)などについても記されている。