戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

クマルカフ Q'um'arkaj

 後古典期後期(1200年~16世紀)に高地マヤで強勢となったキチェ・マヤ人の主都。現在のグアテマラ共和国キチェ県に位置するクマルカフ遺跡がその跡地とされる。遺跡名の「クマルカフ」はキチェ・マヤ語で「古い葦の場所」を意味し、別名のウタトランは、ナワトル語で「豊富な葦」を表す。

マヤ高地の要塞都市

 キチェ・マヤ人の主都クマルカフは、海抜約2000メートルの高地にあり、周りを高さ80~100メートルの切り立った崖や深い渓谷が囲む天然の要害であった。大部分の住民は、クマルカフの要塞ではなく周辺部の丘陵上に居住していたとみられ、7平方キロメートルの範囲に1万~2万人の人口が推定されている。

 クマルカフ遺跡中心部にはポポル・ナフ(会議所)、宮殿、高さ10メートルの神殿ピラミッド、4基の球技場や12の公共広場などがあった。発掘調査により、壁画のある宮殿、墓、金製装身具などが見つかっている。また都市中心部には、出入口が2つしかなかく、狭く長いサクベ(堤道)に続く出入口は、石造の門で防御されていた。

 民族史料によれば、サクベの上には2人がやっと通れる狭く小さな橋がかけられ、橋は毎晩取り外されたという。もう一つの出入口は狭く急な24段の石段であり、石造の門に続いた。

キチェ・マヤ人の勢力拡大とカクチケルとの戦争

 民族史料によれば、クマルカフのキチェ・マヤ人の支配層は、マヤ低地西端のメキシコ湾岸低地のチョンタル・マヤ人あるいはチチェン・イツァ遺跡の戦士集団の末裔とされる。一方でキチェ盆地に古典期から居住したキチェ・マヤ人の末裔という意見もあるという。

 民族史料によれば、クックマツ(キチェ・マヤ語で「羽毛の生えた蛇」を意味する)という偉大なキチェ・マヤ王が、1400年頃にクマルカフを創設した。クックマツ王は戦争で周辺地域を征服して、キチェ王国の勢力範囲を拡大。クックマツ王の後継者であるキカブ王(1425~1475年頃統治)は、戦争でマヤ・マム人の王都サクレウを含む高地の周辺地域や太平洋岸地域まで勢力範囲をさらに拡大し、貢納を確保した。

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 一方で1470年(文明二年)頃、キチェ・マヤ人に従属していたカクチケル・マヤ人が政治的に独立。従来の中心都市チ・アワルから離れ、新たな要塞都市イシムチェを建設した。クマルカフのキチェ・マヤ人は、1480年(文明十二年)と1511年(永正八年)にイシムチェを攻撃したが、失敗に終わったとされる。

ペドロ・デ・アルバラードの侵攻

 1521年(大永元年)、メキシコ中央部に栄えたアステカ王国エルナン・コルテス率いるスペイン人に滅ぼされた。同地の新たな盟主となったコルテスのもとには、キチェ・マヤ人やカクチケル・マヤ人も使者を派遣し、スペインへの服従を約束したという。

 しかし現在のメキシコ南東チアパス州のソコヌスコ地方において、現地のスペイン人やキリスト教に改宗した先住民をグアテマラ高地の集団がたびたび略奪する事態が発生。キチェ、カクチケルの双方は互いを犯人として非難した。

 これに対しコルテスは、長年の腹心であるペドロ・デ・アルバラードを指揮官として、120の騎兵、予備を含んだ160頭もの軍馬、クロスボウ(石弓)やマスケット銃などで武装した300人の歩兵、4基の大砲と大量の火薬、弾薬、さらにアステカ征服で味方につけた数千のメキシコ人歩兵という、大規模かつ重装備の遠征軍を編成。1523年(大永三年)12月6日、グアテマラに向けて進発させた。

キチェ王国の滅亡

 アルバラードの軍勢はテワンペック地峡へ進み、そこから太平洋沿岸地方に出た。このルートはメソアメリカで古くから使われる伝統の交易路とされる。

 1524年(大永四年)2月、アルバラード軍はグアテマラ西部のキチェ・マヤ人の勢力圏に侵入。キチェ・マヤ人の主都クマルカフに向けて進むアルバラード軍*1は、途中のキチェ軍の抵抗を退け、周辺の街を徹底的に破壊していった。

 その後、キチェの本拠地である高地方面のケツァルテナンゴ谷においてキチェ軍が猛攻を仕掛け、激戦となる。アルバラード軍は多くの死傷者を出したが、スペイン人騎兵の突撃が戦況を切り開いたという。一方のキチェ軍は壊滅的な打撃を被り、敗れた。アルバラード本人が書いたとされる手紙には、キチェの高貴な身分にある将軍たちが何人もこの戦いで命を落としたことがみえる。

 この戦いでキチェ軍は戦意を喪失し、貢納を約束して降伏を申し出た。さらにアルバラードにクマルカフへの入城を促したが、騙し討ちを警戒されて拒否された。アルバラードはクマルカフを強固な城塞都市と認識しており、道幅が狭いため市街地で戦闘となった場合、スペイン騎兵の機動力を生かさないと判断したのだという。

 アルバラードはクマルカフ近郊に野営し、「進物がある」という名目で宮廷の高官ともども当時のキチェ王を城外へ呼び出し、これを捕獲した。キチェ軍が反攻にでると、アルバラードはキチェ王たちをその場で焼き殺し、さらにクマルカフの市街をすべて焼き払った。ときに1524年(大永四年)3月のことであった。

 クマルカフを破壊した後、アルバラードは戦争に協力したカクチケル・マヤ人の主都イシムチェに移動。同地を拠点としてマヤ高地とその周辺地域の征服を進めていく。

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参考文献

  • 青山和夫 『シリーズ:諸文明の起源11 古代マヤ 石器の都市文明』 京都大学学術出版会 2005
  • 青山和夫 『マヤ文明の戦争―神聖な争いから大虐殺へ』 京都大学学術出版会 2022
  • 鈴木真太郎 『古代マヤ文明―栄華と衰亡の3000年』 中央公論社 2023

ウタトラン遺跡にあるトヒル寺院の遺跡 1840年
著作者:フレデリック・キャザーウッド パブリックドメイン

File:Catherwood - Santa Cruz del Quiche - Qumarkaj - Tohil Temple.jpg - Wikimedia Commonsより

ウタトラン(クマルカフ)遺跡の平面図
スミソニアン博物館サイトより

*1:同軍にはカクチケルの援軍もすでに参加していた。