戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

勝屋 肥後守 かつや ひごのかみ

 石見国邇摩郡西田の住人。西田に屋敷を有していたことが史料にみえる。江戸期に西田村の庄屋となった勝屋家との関連が想定されている。

森田村屋の所蔵文書

 16世紀末、勝屋肥後守石見国邇摩郡西田に屋敷を構えていた。慶長二年(1597)十二月十日付「地銭・諸役銀付立写」*1には、彼が西田に屋敷壱所を有し、地銭(屋敷の間口を基準に賦課された税)3匁を賦課されていたことが記されている。

kuregure.hatenablog.com

 なお「地銭・諸役銀付立写」は、毛利氏領国であった石見・出雲・伯耆・備後・安芸5ヵ国内における毛利氏関係文書を収集した『五国証文』内の史料であり、邇摩郡大森の田村屋忠助なる人物の所蔵文書とされている。

 そして田村屋忠助の所蔵文書はもう一点ある。すなわち周防大内氏当主の大内義隆が天文十二年(1543)二月十六日付で発給した官途吹挙状写であり、勝屋四郎右衛門尉という人物に対して「若狭守」に吹挙することを約束している。

 この勝屋四郎右衛門尉は、勝屋肥後守の先祖にあたる可能性が指摘されている。

水上神社造営と西田村庄屋・勝屋家

 江戸期、勝屋家は西田村で庄屋をつとめた。西田の水上神社の棟札のうち、宝暦十一年(1761)のものに西田村の庄屋として勝屋平太の名がみえ、同じく安永七年(1778)には西田村庄屋の勝屋小兵衛の名がある。

 上記の水上神社造営のうち、宝暦の造営は本殿と拝殿を建立する大規模なものだった。西田村庄屋の勝屋平太は、材木として杉1本を奉納。また建築部材として藤の彫り物の蟇股一面も寄進している(「水上神社造営記」)。

参考文献

宝暦十一年(1761)に建立された水上神社の本殿

*1:当時の西田に賦課されていた税について記した史料。税の種類は、屋敷の間口を基準に賦課された地銭と、物資輸送に関連する税である馬役銀、酒税である酒屋役の三つがあった。