戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

小田 藤右衛門尉 おだ とうえもんのじょう

 筑前博多の商人。子に弥五郎。神屋寿禎の代官として石見銀山に派遣され、石見銀の買い付けを行った。後に天文十六年度遣明使節の一号船の船頭として入明したが、寧波にて死去した。

神屋寿禎の代官

 大永七年(1527)三月、石見国田儀浦の三島清右衛門により石見銀山の開発が始まる。清右衛門は吉田与三右衛門、同藤左衛門、於紅孫右衛門の3名の大工を同行して銀を入手したとされる(「石州仁万郡佐摩村銀山之初」)。

 「おべに孫右衛門縁起」および「石州仁万郡佐摩村銀山之初」では、「銀山正主」(銀山の所有者か)を三島清右衛門と博多商人の神屋寿禎としている。両史料には寿禎の「代官」として小田藤右衛門*1がみえる。三島清右衛門と寿禎代官・小田藤右衛門は、銀山に米・銭を入れ、銀を買い入れたという。

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 小田藤右衛門は神屋寿禎の代官として、銀の買い付けのため石見銀山に派遣されたと考えられる。

遣明船の船頭として入明

 石見銀山の始まりから約20年後の天文十六年(1547)、小田藤右衛門尉は遣明船の一号船頭として中国明朝に渡航している。

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 天文十六年(1547)二月二十一日、周防山口を出発した遣明使節は、筑前博多、肥前平戸、河内浦、五島列島奈留島を経由。五月十三日、藤右衛門尉を船頭とする一号船は中国の台州府(目的地である寧波の南隣の州)に到着した。

 遣明船団は、一時散り散りとなったものの合流を果たし、六月一日、4艘そろって寧波の外港・定海に入港。しかし明朝側からは「十年一貢」の貢期違反を理由に寧波入港を拒絶され、しかたなく遣明船団は舟山群島の嶴山島に移り、貢期が満ちるまで待つこととなった(「大明譜」)。

 年が明けて1548年(天文十七年)正月三日、使節団は同じ舟山群島の川山島に移動した。遣明正使・策彦周良の日記「再渡集」によれば、同月七日、「船頭小田藤衛門」が「設汁」して策彦周良や土官(遣明船経営を担当)*2、御用人衆(一号船に乗船した大内氏被官衆)をもてなしている*3

 その後明朝側との交渉がまとまり、三月八日、一行は再び定海に入港。同十日、川を遡って、ついに寧波府へ入港を果たした。

寧波で客死

 寧波入港後も、九月八日に「一号船頭」が麺一盆、酒一壺を策彦周良に贈っていることが「再渡集」にみえるなど、小田藤右衛門尉と遣明使節との交流が確認できる。ただし、貿易の実態については記載がなく、詳細は分からない。

 同年十月六日、正使・副使ら50名が首都北京に向けて寧波を出発した。十二月二十九日、藤右衛門尉の子の小田弥五郎*4が一号船令哲とともに策彦周良に壺一個と蜜柑一盆を贈っている。

 令哲は船頭・小田藤右衛門尉のもとで活動した人物とみられ、弥五郎もまた父が船頭をつとめる一号船に商人として便乗したものと考えられる。藤右衛門尉は寧波に残り、子の弥五郎が令哲らとともに北京行きに随行したとみられる*5

 翌天文十八年(1549)四月十九日、一行は北京に到着。北京には八月九日まで逗留し、寧波への帰還は同年十二月三十日であった。

 一方で、小田藤右衛門尉は寧波で客死した。遣明船に乗船した大内被官・柳井郷直による「大明譜」には、下記の記述がある。

一号船頭博多津小田ノ藤右衛門尉、但寧波にて死了、子弥五郎有

 「再渡集」に「一号船頭」の記事がみえる1548年(天文十七年)九月八日から遣明使節が寧波から出航する1550年(天文十九年)五月までの間のことと推定される。

参考文献

  • 佐伯弘次 「博多商人神屋寿禎の実像」(九州史学研究会 編 『境界からみた内と外 『九州史学』創刊五〇周年記念論文集 下』 岩田書院 2008
  • 岡本真・須田牧子 「天龍寺妙智院所蔵『大明譜』」(『東京大学史料編纂所研究紀要 第30号』 2020)
  • 須田牧子「『初渡集』・再渡集』ー天文八・十六年度船の旅日記ー」(村井章介 編 『日明関係史研究入門−アジアの中の遣明船』 勉誠出版 2015)

石見銀の初期の積出港として栄えた古龍の港

大日本仏教全書 116 「策彦和尚入明再渡集」上 嘉靖二十七年正月七日条
国立国会図書館デジタルコレクション

*1:「おべに孫右衛門縁起」では、小田藤左衛門とされている。

*2:一号船の土官は大内被官・吉見正頼。副土官だった杉隆宗は既に嶴山島で死去していた(「大明譜」)。

*3:この他、「再渡集」には「一号船頭」あるいは「船頭」が策彦周良らを食事や酒でもてなしている記事が散見される。策彦周良は藤右衛門尉が船頭をする一号船に乗船しており、「再渡集」において単に「船頭」とある場合、多くは藤右衛門尉を指すとみられる。

*4:「再渡集」嘉靖二十八年(1549)九月七日条に「一号船頭継子弥五郎」とある。

*5:藤右衛門尉は、寧波出発以降で記事にみえなくなるので、寧波に残ったものと推定される。