戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

遣明船 けんみん せん

 室町・戦国期、日本から中国の明朝に派遣された船舶。チャーターされた国内商船が充てられた。天文十六年度船は、記録から船の全長や柱長が分かっている。

国内商船のチャーター

 残された記録類によると、遣明船は瀬戸内海の要港の商船を借りるのが常であった。15世紀中頃の宝徳度の多武峰船は安芸国高崎の船であり、応仁度の遣明船の記録『戊子入明記』は、渡唐の候補船として豊前国門司、周防国冨田上関・深溝・柳井備後国尾道田島因島備前国牛窓の船14艘を挙げている。船の大きさは、小枡で表すと700石積から2500石積までとなる。

 チャーター船には、修理だけでなく、使節・商人の居室と厩を増設するなどの作事を施し、帆・綱・碇などの船道具を補充しなければならなかった。これらには、かなりの費用がかかっており、永享四年(1432)度の十三家寄合船・八幡丸の場合、賃借代と作事・船道具代はともに300貫文だった。宝徳度の多武峰船は、賃借料と作事料はともに300貫文、文正元年(1466)閏二月に呼子浦で海難にあった応仁度の幕府船・和泉丸の場合、賃借料・作事料はともに300貫文、船道具代は100貫文であった。

天文十六年度の遣明船

 天文十六年(1547)に大内氏が派遣した遣明船は、具体的な規模が『大明譜』に記されている。これによれば、一号船は全長23尋、柱は長さ13尋であった。1尋を5尺=1.515メートルとした場合、全長約34.8メートル、柱長約19.7メートルとなる。

 遣明船ではないが、14世紀に中国産品を積んで慶元(後の寧波)から博多に向けて航海し、朝鮮半島西海岸に沈んだ新安沈船は、長さ約34メートル、幅約11メートル、排水量は約200トンと推定されている。天文十六年度の一号船は、新安沈船とほぼ同様か、それよりやや大きかったものと考えられる。

 また、荷物の積載場所と容量を示すとみられる「荷所」は、一号船で500駄、二号船は600駄、三号船は616駄、四号船は160駄であった。ただし一号船については、「但是ハ面むき也」と記されており、実際の数と乖離があったことが示唆されている。『大明譜』にこのような具体的記述があることから、著者の柳井郷直は、実際に積荷を管理するような業務に携わる立場の人間であった可能性が指摘されている。

 船の乗員数は、使節団全体の人数が600余人であることから、一船あたり150人程度と考えられる。しかし四号船は上記のように他の船よりも荷所の容量が少ないことから、規模も小さいと推定される。このため、一号船から三号船の乗員数は、もう少し多いものと思われる。

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参考文献

  • 安達裕之「船としての遣明船」(村井章介 編 『日明関係史研究入門−アジアの中の遣明船』 勉誠出版 2015)
  • 門田誠一「新没船資料と日元貿易」(『東アジアの海とシルクロードの拠点福建ー沈没船、貿易都市、陶磁器、茶文化ー』 海のシルクロードの出発点""福建"展開催実行委員会 2008)
  • 岡本真・須田牧子 「天龍寺妙智院所蔵『大明譜』」(『東京大学史料編纂所研究紀要 第30号』 2020)

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