柳井川河口に中世以前から形成された港町。柳井からは内陸部への街道が延びており、周防の東の玄関口でもあった。また柳井には周防に大きな既得権を持つ鋳物師集団が存在しており、現在にも金屋の地名を残している。
柳井の水運
中世、柳井は荘園の年貢輸送の港として栄え始める。文安二年(1445)における関税台帳『兵庫北関入舩納帳』によれば、この年、兵庫北関に入港した柳井船は2隻だった。その1隻は、周防塩100石、米500石、総計600石もの物資を積載しており、柳井の水運力がうかがえる。またこの船は大内氏の過書(免税書)を持って、同氏の米も運搬していた。柳井が、大内氏の東の外港であったことがうかがえる。
遣明船との関わり
柳井の大型船については、応仁二年(1468)の遣明船渡航の記録である「戊子入明記」に記された遣明船候補のリストに「楊井宮丸 七百斛」が記されている。
大内氏最後となる天文十六年(1547)の遣明使船には、柳井氏の一族と思われる柳井郷直が同行している。柳井の勢力が、国際的な水運にも関わっていたことをうかがわせる。
大内警固衆の拠点
柳井は大内警固衆の港でもあった。応仁・文明の乱の際にも、大内政弘が柳井から船団を率いて京に向けて出撃している。柳井周辺には、屋代島や宇賀島、神代など大内警固衆を構成する海上勢力の拠点が点在していた。戦国期、緊迫する安芸国情勢の中で、大内警固衆は柳井とその周辺の港からたびたび出撃している。
関連人物
参考文献
- 金谷匡人・『歴史文化ライブラリー56 海賊たちの中世』・吉川弘文館・1998