戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

仏郎機砲 ふらんきほう

 子砲を砲身の後部に装着して発射する後装式の大砲。砲身は鋳銅製または鋳鉄製。ヨーロッパで開発された火砲で、アジア海域に進出したポルトガル人らによって伝えられ、東アジアにおいて急速に普及した。

仏郎機砲とは

 仏郎機砲とは、シリンダー式の子砲を砲身の後部に装着して発射する後装式の旋回砲を指す。砲身は鋳銅製または鋳鉄製で、本体(母砲)の後部に空洞の薬室部があり、そこに火薬と弾丸を装填した子砲を装着して発射する。

 子砲は取手のついたビアジョッキ状で、これを複数用意して順番に装着することで、連射を行うことができ、射程距離も長かった。また母砲の側面に砲耳があり、これを砲架の上に備えて回転させることができ、照準器も備えていたため、機動性や命中精度も高く、大型銃筒・碗口砲・将軍砲などの伝統的な中国式火器よりも、はるかに機能性が高かった。

福建への伝来

 陽明学創始者である王守仁が記した『書仏郎機遺事』によれば、1519年(永正十六年)、中国江西省の南昌で叛乱が起こった際、兵を率いて鎮圧に向かう王守仁に対して、福建省興化府莆用県に居た知人の林俊が、彼に「仏郎機」を送ったという。林俊は、叛乱の報を聞き、錫を鋳て仏郎機の銃(小型〜中型の火器を意味する)を造らせた。六月十九日の鋳造開始から50日後には、仏郎機は王守仁の陣営に届けられている。

 この史料が正しければ、1519年(永正十六年)には、福建沿海の莆用県で仏郎機砲が鋳造されていたことになる。福建からマラッカなどの東南アジアに渡航した密貿易者を通じて、仏郎機砲の鋳造技術が伝わっていた可能性が指摘されている。

 マラッカには1509年(永正六年)にポルトガル人が来航。1511年(永正八年)に同地を攻略している。またポルトガル人の到来以前から東南アジア海域ではムスリムやインドの海商によって、ヨーロッパ起源の火器が持ち込まれていたとみられる*1

ポルトガル船の広州来航

 1511年(永正八年)、マラッカを占領したポルトガル人は、まもなく中国貿易に乗り出した。1517年(永正十四年)、フェルナン・ペレス・アンドラーデの率いる船団が広州湾に来航し、トメ・ピレス使節として、明朝と公式な通交を開こうとした。しかし1520年(永正十七年)に交渉は失敗。明朝は朝貢使節以外の外国船が貿易を行うことを禁じた。 

 広東海道副使・汪鋐は、後に行った上奏の中でポルトガル船団の様子を語っている。広州湾に来航したポルトガル船は、全長30メートル、幅9メートルあまりで、40本以上の櫓を持ち、200人以上の船員・漕手が乗った大型のガレー船*2であり、その周囲には30門以上の「銃」が備えられていたという(『皇明名臣経済録』)。

 この艦載された「銃」が仏郎機砲だった*3。汪鋐によれば、「銃」は鋳銅製で、重量は90キロから600キロ弱にいたる。1門ごとに鉄製の提銃(子砲)4箇が附属し、この子砲を母砲に装填して使用した。弾丸の内部は鉄、表面は鉛で、その射程は30メートル以上に及ぶとしている。

製法の獲得と量産化

 汪鋐は、仏郎機砲の製法獲得の経緯も記している。ポルトガル船などの停泊地であった屯門付近を管轄する東莞県巡使・何儒は、1520年(永正十七年)、関税徴収の為にポルトガル船を訪れ、長年ポルトガル人とともにあり、造船や銃(砲)・火薬の製法を熟知しているという楊三、戴明という2人の中国人と会った。

 翌1521年(大永元年)、汪鋐は、何儒を通じて楊三らを勧誘し、仏郎機砲を鋳造させた。翌1522年(大永二年)、汪鋐はこの仏郎機砲を活用して、西草湾の海戦でポルトガル船団を破り、2隻を拿捕し、その砲20門あまりを捕獲した。

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 汪鋐は何儒を派遣して捕獲した仏郎機砲のうち4門を朝廷に献納。1523年(大永三年)、まず軍器局において大型の銅製仏郎機砲が32門鋳造され、前線に送って試用が行われた(『大明会典』)。1524年(大永四年)四月には、兵部が工匠を広東から南京に送って仏郎機砲の製法を伝えるとともに、ガレー船の建造が図られている(『世宗実録』)。1528年(享禄元年)、軍器局で小型仏郎機砲4000門が鋳造され、各地の城堡に配備された(『大明会典』)。

急速な普及

 1529年(享禄二年)十二月、汪鋐は、モンゴルへの備えとして、多くの仏郎機砲を北方辺境の砲車や城堡に装備すること、京師の城壁にもそれらを配備することを提言。南方でも仏郎機砲を装備したガレー船を数十艘建造し、長江などの防備に当たらせることも提議した。この上奏を受けて、兵部は新たに仏郎機砲300門を鋳造し、北辺に配備している(『世宗実録』)*4

 1532年(天文元年)九月には、やはり汪鋐の提言によって、両広・雲南・四川などの西南地域の城堡に、多くの仏郎機砲が配備されている(『皇明名臣経済録』)。汪鋐とともに仏郎機砲導入に関わった何儒も、1533年(天文二年)に南京応天府上元県の主簿となり、操江衛門において江防用の仏郎機砲やガレー船の製造を監督することになっている(『世宗実録』)。

 その後も、明朝では仏郎機砲の導入が進められた。1543年(天文十二年)、軍器局で従来の手銃・碗口銃などを、毎年105門づつ後装式に改造することになり、翌年には軍器局が馬上で使用する小型仏郎機を1000門鋳造している。また1544年(天文十三年)には、山西の駐屯軍が、2管の仏郎機砲を溶接して連射を可能にした「連珠仏郎機砲」を鋳造した(『大明会典』)。

 艦載砲として海船への配備も進んだ。1534年(天文三年)に琉球渡航した明朝の冊封船には、2門の仏郎機砲が搭載されていた。1561年(永禄四年)の冊封船では、20門にまで増設されている(『使琉球録』)。

「荒唐大船」の火砲

 1544年(天文十三年)六月、「荒唐大船」1隻が朝鮮半島西南岸の忠清道藍浦の近海に出現。朝鮮水軍が砲撃・弓射して追い払った。この「荒唐大船」は、中国の福建南部の海商が運航する大型ジャンクであったと推定されている。朝鮮軍の捕虜となった乗員・李王乞によれば、銀貿易の為に日本に向かう途中、風に流されて朝鮮近海に漂着したという。

 荒唐船はその後八月頃まで朝鮮近海に留まり、何度か朝鮮水軍と交戦。八月五日には小船に乗った唐人と、山上から現れた紅白の頭巾や黒衣を着た人々(ポルトガル人か*5)が、双方から火砲を放って、朝鮮の兵船を挟撃して敗走させた(『中宗実録』)。

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 荒唐船の「火砲」には、既に中国明朝で普及していた仏郎機砲が含まれていた可能性が高い。その威力は朝鮮側に衝撃を与えており、判中枢府事・宋欽は、朝鮮水軍の火砲と荒唐船の艦載砲を比較して、「火砲は年久しく、薬力は効無く、彼の唐人の砲と視(くら)ぶれば、真に児戯なるのみ」と述べている。

密貿易船の艦載砲

 実際に当時の中国人の密貿易船は、仏郎機砲を装備していた。1548年(天文十七年)十二月、浙江台州府の松門衛近海で、明軍は密貿易船団の大船を複数拿捕。捕獲した火器は、合計で鉄製の仏郎機砲が4座と、その子砲が13箇にのぼった(『甓餘雑集』)。

 『甓餘雑集』所収の朱紈の上奏文によれば、1548年(天文十七年)の密貿易船掃討作戦の内、8例中6例(上述の十二月の例を含む)で仏郎機砲が鹵獲されている。これら仏郎機砲は、おおむね中国で鋳造されたものと推定されている。

 ただ双嶼(寧波府定海県)における密貿易のリーダーであった許棟の船団には、ポルトガル人から購入した仏郎機砲も配備されていたとみられる。

 1548年(天文十七年)に明軍の捕虜となった徽州府出身の海商・胡勝によれば、許棟や胡勝らは3本マストの大型ジャンクで、マラッカをはじめとするポルトガルの貿易拠点に渡航。生糸・絹・綿布・磁器などを輸出し、胡椒・蘇木・象牙・香料などの南洋産品のほか、「大小の火銃」も輸入していた。

 「大小の火銃」とは、ポルトガル人がインドのゴアや東南アジアで現地生産していた仏郎機砲や火縄銃を指すと考えられる。

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参考文献

  • 中島楽章 「銃筒から仏郎機銃へ―十四~十六世紀の東アジア海域と火器ー」(『史淵』巻148 九州大学文学部 2011)
  • 中島楽章 「一五四〇年代の東アジア海域と西欧式火器」(『南蛮・紅毛・唐人ー一六・一七世紀の東アジア海域ー』 思文閣出版 2013)

仏狼機 籌海図編19(国立公文書館デジタルアーカイブ

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青銅製の仏郎機砲。16世紀末、亀井茲矩朝鮮出兵の戦利品として持ち帰ったと伝えられる。

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子砲を入れる薬室部のアップ。

*1:エジプト・カイロのムスリム海商は、ヴェネチア船が運んでくる武器類を、インド経由でマラッカにもたらしていた。その中には、ヨーロッパ式の火器も含まれていたと推定される。

*2:ガレー船は16世紀まで地中海などで主要な軍船として用いられた。ポルトガル人も長距離航海では、より大型のカラック船やカラヴェル船を用いたが、水深の浅いペルシア湾・インド沿岸・東南アジア海域・中国沿岸では、速力と機動性に優れたガレー船を広く使用していた。

*3:ポルトガル船の広州湾来航時、広東按察司僉事であった顧応祥は、ポルトガルの「銃」は鉄製だったと述べている。ポルトガル船は舷側に4〜5個の仏郎機砲を装備し、船艙内から発射して他船の船板を破壊したとしている(『籌海図編』)。

*4:1530年(享禄三年)九月にも、汪鋐は上奏を行い、モンゴルの侵攻を防ぐ為に、長城線に沿って五里ごとに物見台、十里ごとに城堡を設置し、物見台には小型仏郎機砲1門を、城堡には大型仏郎機砲3門を設置することを提言し、やはり裁可されている(『世宗実録』)。

*5:紅白の頭巾と黒衣は、ポルトガル人船員が着用することが多かった。この荒唐船の船員を目撃した朝鮮の役人は「或いは唐人の容貌の如くならざる有り」と述べており、中国人と異なる容貌の人々が乗っていたことがうかがえる。