戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

李 王乞 り おうきつ

 中国福建・漳州出身の貿易商人。16世紀中頃、銀貿易の為に日本に向かったが、朝鮮に漂着して捕縛され、明朝に送還された。朝鮮政府にとっては、日本・福建間の密貿易活発化を認識する契機となった。

朝鮮に漂着した荒唐船

 1544年(天文十三年)六月二十二日、朝鮮の忠清道・藍浦(ラムポ)の近海に「荒唐大船」*11隻が現れた。朝鮮の水軍が、賊倭(倭人の海賊)とみなして砲撃・弓射したところ、荒唐船は外洋に逃げ去ったが、その際に乗員一人を捕虜とした。

 彼は言語・容貌・服装ともに明らかに唐人(中国人)であり、福建出身の李王乞と称した。その供述によれば、この荒唐船は、銀の貿易を行うために日本へ向かう途中、嵐に逢って流されたものと分かった(『中宗実録』)。

 この事件と符合する記事が、中国明朝の史書『世宗実録』嘉靖二十三年(1544)十二月の条にある。すなわち、漳州の民李王乞らが、貨を載せて「通蕃」(この場合は日本との貿易)しようとして嵐にあって朝鮮へ流され、朝鮮王は39人を捕獲して遼東郡司に械送した、とある。

 この荒唐船は、以後も朝鮮近海に留まり、朝鮮水軍と数度交戦。七月、李章ら「頭人」を含む乗員の一部が忠清道・泰安半島の麻斤浦に上陸し、朝鮮軍に捕らえられている。その後、八月十二日に外洋に向けて出航したことが報告されており(『中宗実録』)、当初の予定通り日本に向かったものと考えられる。

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日明間密貿易の急増

 1547年(天文十六年)三月、朝鮮政府は朝鮮近海に漂着した中国福建の密貿易者341人を、明朝に送還した。その際の遼東郡司への咨文には、以下のように記されている。

福建の人民、故(もと)は海に泛びて本国に至る者無し。頃(このこ)ろ李王乞等より、始めて以て日本に往きて市易せんとし、風に漂う所と為る。今又た馮淑等、前後共に千人以上を獲たり。皆な軍器・貨物を來帯す。これより前、倭奴には未だ火炮有らざるも、今は頗るこれ有り。蓋しこの輩の䦨出する故なり(『世宗実録』)。

 李王乞が漂着した頃から、中国福建の密貿易船が日本に向かうようになり、朝鮮への漂着が急増していると、朝鮮政府は認識していた。また、この福建の密貿易船は武器を積載しており、既に日本に火炮技術が伝わってしまっていることに危機感を募らせていることもうかがえる。

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参考文献

中国福建省の浜辺 河口から海へ from 写真AC

*1:荒唐船は、倭船か唐船かが不明瞭な海賊船を指す朝鮮側の呼称。