戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

李 章 り しょう

 中国福建・泉州府同安県出身の貿易商人。16世紀中頃、銀貿易の為に日本に向かう途中、朝鮮に漂着した密貿易船の「頭人」の一人。李章らの密貿易船は、100人以上が乗船する大型ジャンク船であり、乗員の多くが福建の海商たちであったとみられる。

火炮を備えた荒唐船

 1544年(天文十三年)六月二十二日、朝鮮の忠清道・藍浦の近海に「荒唐大船」*11隻が出現。朝鮮の水軍が、賊倭(倭人の海賊)とみなして砲撃・弓射したところ、荒唐船は外洋に逃げ去った。その際に捕虜となった福建出身の明人・李王乞の供述により、この荒唐船は銀貿易の為に日本へ向かう途中、嵐によって朝鮮西南岸に漂着したことが分かった(『中宗実録』)。

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 七月五日、塩を運搬していた小船が、忠清道馬梁の近海でこの荒唐船に遭遇。船中には「異服の人百余名有り、或いは紅巾を以て頭を裏(つつ)み、或いは匹段を以て衣と為し」ていたという。荒唐船は小船を劫掠したうえ、その乗員に海島の井泉を案内させて島上に放置し、「双帆を掛張して西海の大洋に」去っていった(『中宗実録』)。

 七月十四日、全羅道の飛弥島に停泊していた荒唐船を、朝鮮水軍が包囲した。全羅道右水使の報告によれば、荒唐船の乗員は90余名で、黒衣を着た者もあり、言葉は通じなかった。このため文字を大書して漂着の理由を尋ねたが、かえって荒唐船は「火炮」を発し、炮に当たった朝鮮の兵士2名が死亡し、2名が負傷した。朝鮮側は止むを得ず「火炮・弓箭」で応戦したが、唐人は船上の防壁に隠れ、東方沖に去ったという。

 この事態に左承旨の安玹は、このまま荒唐船が日本に渡航し、火炮の技術を教習しては一大事であると指摘。全羅道近海を出さないようにすべきだと提言して、国王中宗もこれに賛同している(『中宗実録』)。

捕らわれた乗員

 その後、忠清道・泰安半島の麻斤浦に「高大なる一船」があらわれ、「双檣に旗を懸け、海口に住泊」した。その乗員はおよそ150人とされ、そのうち前後して38名が上陸。忠清道では、上陸した唐人の身柄を確保し、清州と泰安に留置した(『中宗実録』)。

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 彼らの供述によれば、荒唐船には高賢・李章以下の10名の「頭人」のほか、60名の「客公」、および10名の水夫が同乗していたという。「頭人」は船主以下の幹部、「客公」は同乗した商人と考えられる。

 七月十九日、朝鮮水軍が船上に残った唐人に下船を勧告。しかし唐人たちは応じず、二十一日、荒唐船は洪州へと南下した(『中宗実録』)。

 七月二十三日、中宗は上陸した唐人の身柄を政府に送致させるとともに、荒唐船自体は必ずしも追跡する必要はないと指示。そのうえで、日本に往来する密貿易船は、今後も相次ぐだろうから、日本人が火砲を習得するのを防ぐのは難しい、との見通しを示している。

頭人」李章の交渉

 七月二十八日、唐人たちの身柄が政府に到着し、訊問が行われた。「頭人」の中でも李章は文才ある知識人であり、上書して漂流の経緯を説明した。それによれば、彼は福建省泉州府同安県の出身で、飢饉のため生活に窮し、やむをえず海禁を犯して海外貿易に乗り出したが、暴風により朝鮮近海に漂着したのだという。李章は八月一日にも上書して、陸路で明朝に送還するのではなく、海路で帰還することを許してほしいと懇願している。

 朝鮮政府内では、海路で帰還させる案は検討されたものの、結局は李王乞や李章をはじめとする唐人の身柄は、陸路により遼東経由で明朝に引き渡すことになった。ただし遼東郡司への咨文では、彼らが銀を求めて日本に密航したことだけを記し、死罪に当たる軍器の国外持ち出しについては触れないことにした(『中宗実録』)。

その後の荒唐船

 八月一日、荒唐船は再び南下して全羅道霊光近海の声伊島に停泊。田地の穀物を刈り取って船内に積み込んだ。

 八月五日、同島にて荒唐船の乗員が朝鮮の兵船を襲撃。唐人30余名が小船に乗って火炮を放つ一方で、山上からも紅白の頭巾や黒衣を着た人々が火炮で砲撃し、朝鮮の兵船を挟撃して敗走させた。この時、朝鮮の兵士7名が荒唐船の捕虜となった。

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 八月十二日、荒唐船の唐人は捕虜の一人に託して、朝鮮側が上陸した仲間を拘留したことを非難する書簡を送り、外洋へと出帆していたったという(『中宗実録』)。以後、荒唐船の動向は記録に見えなくなる。食料と水を積み込んで、日本へ向かったと考えられる。

荒唐船の乗員たち

 荒唐船の「頭人」であった李章は、前述のように福建省泉州府同安県の出身*2であった。泰安に上陸した唐人たちの供述調書では、「頭人」9名と「客公」40名の姓名が列挙されているが、鄭・林・何・高・黄・王など福建に多い姓がみられる。荒唐船の乗員の多くが福建海商であったことが背景にあると思われる。

 この地域では人口が過剰で、李章自身も述べたように、人々は15世紀末から、海禁を犯して南シナ海域で密貿易を展開していた。16世紀中頃には、日本銀を求めて、彼らの活動が東シナ海域にも拡大していたことがうかがえる。

 また李章の上書の文章表現は、一般の商人が用いる実用的漢文ではなく、故事や修辞を多用した文人的漢文であった。このため、彼は少なくとも科挙初級試験(童試)のための学問を修めた読書人であったと考えられるという。

 なお荒唐船には、黒衣を着て、紅白の頭巾を着けた者たちがいた。東アジア海域の人々は黒衣を着用することは稀であるが、一方で16世紀のスペインでは、男性の着衣には質実な黒色が推奨されており、ポルトガルも同様*3であったと考えられるという。またポルトガルの船員は、紅白の頭巾を着用することが多かった*4

 1544年(天文十三年)七月に荒唐船が泰安半島に停泊た際、その船員を目撃した朝鮮の役人は「或いは唐人の容貌の如くならざる有り」とも述べている(『中宗実録』)。李章らの荒唐船には、ポルトガル人の私貿易商人も同乗していた可能性がある。

参考文献

  • 中島楽章 「一五四〇年代の東アジア海域と西欧式火器」(『南蛮・紅毛・唐人ー一六・一七世紀の東アジア海域ー』 思文閣出版 2013)

中国福建省 石造りの塀の向こう from 写真AC

*1:荒唐船は、倭船か唐船かが不明瞭な海賊船を指す朝鮮側の呼称。この船は後述の朝鮮側の記録から、明朝で大福船と呼ばれた大型ジャンク船であったと推定される。

*2:泉州府同安県は、1548年(天文十七年)に双嶼攻撃を発動した朱紈が、沿海密貿易の黒幕として弾劾した郷紳の林希元の地元でもある。林希元をはじめとする郷紳層と、海商や土豪が結びついた、同安における密貿易ネットワークの一端に、李章も連なっていた可能性があるという。

*3:東アジアに来航したポルトガル人の多くが黒色の衣服を着用していたことは、各種の南蛮屏風にも描かれている。

*4:ポルトガル人画家アンドレレイノーゾによる1612年の作品「聖フランシスコ・ザビエルの伝説」第9図には、描かれたポルトガル船員のうち9名が赤系統の頭巾を、4名が白色の頭巾を着用している。