戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

使送船(対馬) しそうせん

 日本(対馬)から朝鮮に渡航した使節が乗り込んだ船。朝鮮は通交(外交)と貿易を一体のものとして扱ったため、使送船もまた貿易船としての性格を持った。また船の規模は、朝鮮側によって規定されていた。

日朝貿易と使送船

 中世の日本と朝鮮との通交は、日本を起点として人と船が朝鮮との間を往復するという一方的なものだった。朝鮮が南北の「国境」管理を行い、臣民の越境を制限していたためとされる。

 さらに朝鮮は日本や琉球からの通交(外交)と貿易を一体のものとして扱った。このため、朝鮮政府の許可を受けて貿易を行うためには、公式の通交使節を派遣し、外交文書を授受し、所定の外交儀礼を遂行する必要があった。ゆえに日本人が貿易を主たる目的として朝鮮に渡航したとしても、彼らは通交使節なのであり、彼らが乗り込んだ船は「使船」(「使送船」)として扱われた。

 1430年代後半、対馬宗氏が発行する文引(パスポート)によって使船の朝鮮渡航を管理するという制度が確立した。1439年(永享十一年)、朝鮮は宗貞盛に遣使して、使船の管理をめぐる11か条の方針を提示。その第1条で、日本から来航する「使送船」の等級を定め、「格人」(船員)の人数は大船40人、中船20人、小船20人、小小船10人を「常数」(定数)とすることを定めている(『世宗実録』21年4月甲辰条)。その後、日本から来航した船の「尺量」(サイズチェック)と「客人」の人数確認が行われるようになった(『世祖実録』3年正月辛巳条)。

 1471年(文明三年)成立の申叔舟著『海東諸国記』によると、この頃までに日本の使船のサイズ*1についての規定もできていた。船の等級は「小船」「中船」「大船」の3等級となっており、「小船」は25尺(7.70m)以下、「中船」は26〜27尺(8.01〜8.32m)、「大船」は28〜30尺(8.62〜9.24m)とされた。30尺(9.24m)を越える船は許容されなかったことが分かる。

 なお使者のランクは国王使、巨酋使、諸酋使、対馬島主使(歳遣船)に分類される。このうち日本国王使のみは、船の尺量を免除されていた(『海東諸国記』)。15・16世紀、対馬宗氏は国王使、巨酋使、諸酋使の名義を利用した偽使を運用。また対馬島主歳遣船の権益は、主として宗氏直臣に知行として分与されていた。

船のサイズをめぐる交渉

 1567年(永禄十年)五月、「日本国」使者(実際は対馬の宗義調が仕立てた偽使)が朝鮮に対し5か条の要求を行う。そのうち1か条は、使船の「尺量」に「布帛尺」を使用してほしいというものであった。

 使船の「尺量」に用いられていた「営造尺」が1尺=30.8cmであるのに対し、「布帛尺」は1尺=46.66cmであり、約1.5倍の開きがある。この「布帛尺」を適用し、1尺未満を切り上げると「小船」11.65m以下、「中船」11.66〜12.58m、「大船」12.59〜13.98mとなる。

 またこの時、「日本国」は対馬島主歳遣船30隻の「大中小」、すなわち大船、中船、小船の区別を廃してほしいとも要求している。これより前の1557年(弘治三年)、朝鮮は宗氏に対し対馬島主歳遣船の年間25船から30船への回復を認め、その内訳を大船11、中船10、小船9としていた。「大中小」の区別を無くすことで、全長14m級の大船やそれ以上の規模の船も使船として利用したいという意図が、対馬側にあったと考えられている。

対馬での尺量

 1569年(永禄十二年)、朝鮮は釜山浦における島主歳遣船の尺量を停止し、対馬側に船の大中小を申告させることとした。これは同年の偽日本国王使の交渉によるものであった。

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 宣祖国書(日本国王宛返書)には、今後は尺量を停止すること、対馬島主が自らの歳遣船の大中小の決定を任意で行い、その等級を文引(パスポート)に明記するならば、記載事項を確認した上で応接すること、が記されている(『朝鮮通交大紀』巻2)。

 尺量の手続きの省略は、従来は日本国王使に限定された優遇措置だったが、対馬島主歳遣船にも拡大されることとなった。

 しかし、早くも1572年(元亀三年)には文引に記載された等級とは異なる使船が釜山浦に入港することが問題となっていた。同年閏二月、宗義調は尺縄を制定して「尺より長き船」の出航を禁止し、豊崎郡鰐浦(対馬最北端の風待港)で臨検を実施するよう、被官の大浦康勝と比田勝康次に指示。同年三月以降、大浦、比田勝両名は鰐浦で尺量を実施し、その記録として「印冠之跡付」を作成した。

 結局、1573年(天正元年)三月に鰐浦での尺量は停止となり、釜山浦での尺量が復活した。同年七月、宗義調が大浦、比田勝両名に宛て、朝鮮からの「返書」(礼曹参議書契)に釜山浦での尺量を復活させるとの通達があった旨を伝えている。

 この朝鮮側の措置について義調は下記のように述べている。

是も商人なかすをのり渡故に候、手本を某か船を見かしめ候へとも、無其儀故、如此候

 宗義調は「手本」として用意した船を実見させたにもかかわらず、商人たちがそれを遵守せず、勝手に「なかす」に乗って渡航したためであるとの認識を示している。「なかす」とは、「手本」の船(朝鮮側が許容する規模の船)を超える「大船」を指しているとみられる。

 宗氏としては、歳遣船の規模を無制限に拡大するつもりはなかった。義調が用意した「手本」の船とは、布帛尺ベースで計算した船、すなわち11〜14m級の船であったと考えられている。

 義調はこの後も偽日本国王使を仕立てて朝鮮側と尺量をめぐる交渉を行ったが、不調に終わった。釜山浦での営造尺による尺量は、1635年(寛永十二年)の「兼帯の制」導入時まで継続されたとみられる。

朝鮮への渡海時期

 上記のとおり、「印冠之跡付」は元亀三年(1572)から天正三年(1575)にかけての対馬鰐浦での対馬島主歳遣船(年間30船)の尺量記録である。歳遣船は尺量を受けてから間も無く朝鮮に出航したと考えられるので、尺量回数と実施月から、出航時期の傾向を知ることができる。

 これによれば、歳遣船の朝鮮渡航のピークは旧暦三月(グレゴリオ暦4月上旬〜5月上旬)であった。この時期は徐々に晴天の日数が増え、東寄りの風が卓越するようになるという。「使船」の場合は、輸出する貨物を積載し、帆走をメインとする荷船であるため、北・西寄りの風の割合が小さくなる旧暦三月を待って出航したと考えられている。

 また歳遣船の渡航は、旧暦六月(6月下旬〜8月上旬)、七月(8月下旬〜9月上旬)にも集中する。梅雨があけて晴天が多くなり、かつ南寄りの風が卓越する時期であり、対馬近海の波の高さも0.5〜1.0mとなるとされる。すなわち、旧暦三月、六月、七月が朝鮮渡航の好適期とみられていたことがうかがえる。

宗氏の造船

 申叔舟著『海東諸国記』(1471年)日本国紀・対馬島条には、対馬府中の南隣の「仇多浦」(久田浦)について「三十余戸、造船」との記載がある。

 対馬府中は15世紀後半に守護所の所在地となり、そのまま近世城下町へと発展していったが、17世紀後半に矢来(防波堤)が造成されるまでは、波が荒く、船の停泊には適さなかったという。このため、造船にも適していなかったと推定され、宗氏が直営する船は久田浦で造船されていた可能性がある。なお久田浦には、後に近世対馬藩の公用船の造船場である「お船江」が造成されている。

 天正五年(1577)閏七月、宗義調が梅野惣左衛門と梅野孫八郎に宛てた書下には、彼らが宗晴船の代から奉仕する「船大工」であったことがみえる。惣左衛門らは普段は豊崎郡で「堪忍」(奉公)していたが、今度の「府内」(対馬府中)での「大船」造船に際し、数日間に渡り勤仕したらしい。

 宗氏は「内者」と称される直属の職能民を抱えていた。梅野氏も「内者」の身分を付与されて宗氏による造船に従事していたと考えられている。

朝鮮による資材支給

 1473年(文明五年)、朝鮮の領議政・申叔舟は国王成宗に対し、下記のように倭船(日本船)と自国の船を比較して特徴を述べている(『成宗実録』4年12月壬午条)。

板は甚だ薄く、多く鉄釘を用い、本は狭くして腹は闊(ひろ)く、両端は尖鋭なり。故に軽快にして往来に便なり。然るに動揺せば、則ち釘穴は浸闊して水漏し、腐敗を致し易し。

本国の兵船は、体は重大なりと雖も、然るに木釘は湿りて益ます固し。故に堅緻牢実にして、用うべきこと十年なり。

 倭船は薄い板材を使用し、鉄釘を多用して建造することが分かる。また、海上で船が揺れると、釘穴が広がって「水漏」(浸水)が起こるため、鉄釘が「腐敗」(腐食)しやすいという欠点も指摘している。

 鉄釘などの船舶用資材は、朝鮮からも支給された。1470年(文明二年)、宗貞国は朝鮮に遣使し、此の「使船」は「旧船」(老朽化した船)であるとして、「板釘」「鉅末釘」と「陸物諸縁具」*2の下賜を要請している。「板釘」は丸釘ではなく、扁平な形状をした釘を指すとみられ、「鉅末釘」は鎹(かすがい)を意味するという。

 15世紀末の朝鮮の重要法令集『続大典』には、「深遠処倭」(対馬以外の地域の通交者)の「客人」(使節)が来航した際に、船を点検して適宜「諸縁」を支給することが定められている。対馬からの使船を対象とはしていないが、15世紀半ば以降、対馬宗氏は「深遠処倭」(深処倭)の名義を騙る偽使の運用を拡大しており、実態としてはほとんど対馬船であった。

参考文献

  • 荒木和憲 「中世日朝通交貿易における船と航海」(『国立歴史民俗博物館研究報告 第233集』 2021)

海東諸国紀 国立国会図書館デジタルコレクション

*1:船の長さが、全長なのか、船底長なのかは不明だが、港湾に停泊した状態で計測できる全長であったと推定されている。

*2:船に積載する船具類を総称したものと考えられている。