応永二十七年(1420)に朝鮮の日本回礼使・宋希璟が対馬で出会った僧体の人物。希璟は詩の中で彼を「被虜唐僧」と呼んでいる。中国(明朝)台州の軍官であったという。倭寇の捕虜となり、対馬の海民のもとで使役されていた。
朝鮮使節の見た中国人の境遇
応永二十六年(1419)、朝鮮軍が対馬を襲撃した「応永の外寇」が起こる。翌応永二十七年(1420)、朝鮮政府は対馬や室町幕府との関係修復をはかり、日本回礼使として宋希璟を派遣。釜山を出発して対馬に到着した希璟一行は、同年二月十七日、西泊(対馬市上対馬町西泊)に入った。
この対馬において、宋希璟の船を見て、一人の倭人の「老賊」*1が近づいていたことが『老松堂日本行録』にみえる。その倭人は小舟に乗って魚を捕えて生活しており、希璟一行に魚を売ろうとした。
希璟が舟の中を見ると、一人の僧侶がおり、跪いて食糧を求めた。食糧を与え、僧侶の境遇について尋ねたところ、僧侶は「自分は中国江南台州の小旗(明朝の軍官)であるが、二年前(応永二十五年)に捕虜となり、ここに来て髪を削られて奴となった。辛苦に耐えないので、自分を連れて行ってくれ」と答え、涙を流した。
倭人は「米を自分にくれるなら、この僧を売ろう」と話をもちかける。希璟が僧に対し、この島での居住地の地名を尋ねると、僧は「自分は転売され、この倭人に随って2年になるが、このように海に浮かんで暮らしているので、地名を知らないのだ」と、答えた。
中国出身の奴と対馬
上記のようなやりとりを踏まえて、希璟は、以下のような詩を詠んでいる。
被虜唐僧跪舟底 哀々乞食訴艱辛 執筌老賊回頭語 給米吾当売此人
この「被虜唐僧」は、中国沿岸を襲った倭寇の捕虜となり、漁をする海民である倭人の「老賊」に売られ、漁を手助けしていたとみられる。そして「奴」になる際、髪を削られ、僧体にされた。攫われた中国人が対馬で奴とされた事例は、他にもある*2。
また、彼を使役する「老賊」は、船上で生活し、筌(うえ)を使って漁をしていたとみられる。
筌は、川の流れなどに仕掛けて魚を捕る道具。竹や樹皮を編んで筒状にし、その一方を緊縛し、他方に口を設け、水中に置いたり、沈めたりして魚の進入を待つ。希璟はここ以外でも、筌を使って漁をする対馬の海民を目撃している。