戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

国弘 三郎左衛門尉 くにひろ さぶろうさえもんのじょう

 安芸国豊田郡安宿の住人。小早川被官か。天正九年(1581)に伊勢御師に献納したことが史料にみえる。国弘氏は安宿、清武に拠点があったとみられ、室町期から存在が知られる。

安宿・清武の有力者

 天正九年(1581)、安芸国豊田郡「あすか(安宿)」にて国弘三郎左衛門尉が伊勢神宮御師・村山氏に献納を行ったことが同年の『村山檀那帳』にみえる*1*2(「贈村山家証文」)。三郎左衛門尉は、この地域の有力者の一人であったとみられる。なお同時代の小早川家中では、永禄・天正年間の史料にみえる国弘隠岐守高実が知られる。

 江戸期編纂の地誌『芸藩通志』は、清武の後堀山城(現在の東広島市豊栄町清武)の城主を国広八郎と伝えている。国弘氏が安宿村および清武村に拠点を持つ勢力であったことがうかがえる。また『芸藩通志』では、清武の法善寺*3を国広八郎の祈願所としている。

室町期の国弘氏

 国弘氏は、室町期には有力な勢力として存在していた。15世紀中頃、沼田新荘の小早川庶子家である秋光・清武の両氏と国弘氏との間で「雑説」が発生。これを聞いた室町幕府細川勝元は、「無為之様」に収拾するよう小早川熈平に命じている(「小早川家文書」183)。

 また寛正二年(1461)十月、小早川熈平は幕府の使節として周防山口に下向するにあたり、家中に役銭を掛けた。この時、国弘氏は秋光氏分15貫文のうち5貫文、清武氏分7貫500文の全額、計12貫500文を出しており(「小早川家文書」108)、同氏が大きな財力を有していたことがうかがえる。

 清武の後堀山城の西麓には「六日市」の地名が残っており、かつて牛馬市として知られていたという。この六日市は、室が峠を経て吉原へ出る道があり、交通の要衝だった。このため国弘氏は、流通に携わる商人的な武士であった可能性が指摘されている。

参考文献

後堀山城跡の遠景 国広八郎が城主だったと伝わる

豊田郡清武の六日市谷

*1:他には祥光寺、金山右京亮、高橋ぬい、かきたの御寺、祝師、宗兼宗五郎の献納がみえる。

*2:なお、永禄元年(1558)十一月の「伊勢御師村山武恒檀那寄進注文」の「あすか」の項には、高橋石見守、高橋甚五郎、宗兼三郎左衛門、河本左近助、乃美、高橋蔵大夫、高橋弥三郎、高橋十郎左衛門、合野助兵衛の寄進がみえる。国弘氏の名はみえない。

*3:『芸藩通史』完成の文政八年(1825)当時、すでに廃寺となっていた。