中世の対馬国の海域では、イルカなどの「大物」は、島主である宗氏への上納が義務付けられていた。一方で宗氏は海士に浦々でのイルカ漁を免許。対馬では海士を主体としたイルカ漁が近世初頭まで続いたという。
宗氏への上納
応永十一年(1404)十二月、対馬の島主・宗貞茂は与良郷大山村(現在の対馬市美津島町大山)の在地領主・大山氏*1に対し、「八かい(海)の大もの(物)」の取り沙汰を命じている(「大山小田文書」)。「八かい(海)」とは、対馬八郡(対馬全島)の海域を意味し、「大もの(もの)」はイルカやマグロなど大型の海中生物を指していると考えられている。
またこの時の書下には、下記の文言もある。
いるかのうら(浦)のものゝ事、十こん(喉)二五こんハくはう(公方カ)物たるへく候、かた(堅)くさいそく(催促)あるへく候
イルカについては、十喉に五喉は「公方物」とされていたことが分かる。公方物は島主である宗氏への上納物と思われ、漁獲高の五割は宗氏に上納することになっていたことがうかがえる。大山氏は宗氏の代官として、浦々にこの原則を徹底させることが求められていたと推定される。
なお、年未詳八月にも宗貞国(貞茂の孫)が小田豊前守に対して、「八海の大物」の事は、代々の「御成敗」の旨を順守させるよう命じている。
海士の活動
イルカ漁の主体を担ったのが海士たちだった。彼らには、八海(対馬全島の海域)においてイルカ漁が免許されていた。天正八年(1580)九月の文書に、下記のように宗義純の判形が出されていたことが記されている。
八海のうち海鹿(イルカ)たち候する時、公領私の浦によらずにんふ免許之事、義純のはんきやふ(判形)の旨にまかせ候、但奉行給人の下知にしたかふべし、至其浦らうせき(狼藉)いたすましき事
海士たちは浦々にイルカが入った場合、そこが公領か私領かに関わらず、すぐさま駆けつけて湾内に追い込み、網をはり、これを突いたと推定されている。
なお中世の対馬曲浦の海士に対しては、寛正六年(1465)十月の宗盛直判物に「京進の御公事」と「その外時々の御さかな」の「御ちそう(馳走)」がみえる。特権のかわりに、彼らには海産物の宗氏への上納が義務付けられていたことがうかがえる。
一方で、寛永二年(1625)、海士彦十宛てに、イルカが立った時は、沿岸の昆布採取を妨害することになっても捕獲に邁進せよという文書が出されている。漁のために浦に乗り込んでくる海士と地元住民との間には利害の対立があった可能性がある。
参考文献
*1:この文書(書下)の宛名は大山宮内入道。大山氏の本拠である大山村は浅芽湾の東側に面する集落。大山氏は大山伴田氏とも称し、戦国期には小田氏を称するようになった。