沼田小早川氏の庶子家である大草氏の当主。官途名は駿河守。沼田新荘の大草村(現在の広島県三原市大和町大草)を所領とした。同地の堀城および高城は大草氏の城と伝わる。
大草氏
大草氏は、沼田小早川氏の有力庶子家・椋梨子氏の分家にあたる。和木為平(椋梨子国平の次男)の五男・為範が大草に所領を得て、新たに大草氏を興したことに始まる。大草持範は、この為範の1〜2代後の当主にあたる。
室町期*1の「沼田小早川氏一族知行注文」に、大草氏は300貫文の所領規模であったことがみえる(「小早川家文書」)。なお同史料では、椋梨子氏は400貫文、和木氏は75貫文の知行であったとされる。
沼田新荘の一揆契約
永享三年(1431)二月十日、持範は椋梨子氏に対し契約状を提出。同じく椋梨子氏の分家である上山景高や和木範平も、同日付で椋梨子氏に契約状を出している(「小早川家文書」)。沼田新荘の小早川庶子家が、椋梨子氏を中心に一揆契約を結んだものと考えられる。
この契約では、公方(将軍)からの公事や守護役の賦課、沼田小早川惣領家の大事に際しては相談して対応にあたること、「契約衆」が他人に合力する際は共に合力を行うこと、沼田小早川惣領家から兄弟親類に扶持が与えられそうになった場合は同心して断ること、などを取り決めている。
惣領家の混乱
永享五年(1433)、沼田小早川惣領家では当主の小早川則平が死去。則平の子の持平と熈平による家督争いが起こる。永享十二年(1440)六月、将軍足利義教から小早川熈平に対し、兄持平の知行分を充行うとの御教書が出され、ようやく決着がついたかにみえた(「小早川家文書」)。
しかし1年も経ていない嘉吉元年(1441)三月、義教は「正体無し」として熈平を廃し、家督を竹原小早川盛景に与えることを決定。沼田小早川庶子家16家に通知した。この宛先の一つに大草駿河守(持範)がみえる(「小早川家文書」)。
結局、同年六月の嘉吉の変により足利義教が死亡したためか、翌年の嘉吉二年(1442)十月、幕府によって改めて則平一跡を熈平が領知すべしとの上意が発せられた(「小早川家文書」)。十一月、持平方の親類・被官人が要害に楯籠ったが、幕府の命令を受けた備後守護・山名氏が芸備両国の国人を動員してこれを制圧した(「小早川家文書」)。
嘉吉二年の一揆契約と没落
小早川持平方が討伐される直前の嘉吉二年(1441)十一月十六日、沼田新荘の小早川庶子家は一揆契約を締結。新荘の盟主である椋梨子氏に提出された連署契約状には、大草駿河守持範の名もみえる*2(「小早川家文書」)。内容は、この衆中の一人の大事については各人の大事と考えて協力すること、もし惣領家から聊かでも非分の子細を申されたならば同心して嘆願すること、の二点だった。
この一揆契約は、持平方に加担し、惣領の熈平に対抗する目的で形成された可能性が指摘されている。というのも、嘉吉二年の一揆契約以降、大草氏が史料上で姿を見えなくなる*3。それどころか、康正元年(1455)十二月の小早川熈平自筆所領目録に、新たに「大草村」が加えられている(「小早川家文書」)。大草氏が熈平に敵対した為、所領が惣領家に没収されたものと考えられる。
参考文献
- 岸田裕之「室町期沼田小早川氏の惣庶関係と領域支配」(『大名領国の構成的展開』 吉川弘文館 1983)