石見国最大の河川である江川(ごうのかわ)の河口部に位置する港町。地名としての「江津」の初見は、南北朝期の永和二年(1376)閏七月。益田兼見あての「室町将軍家御教書」に、「石州於江津戦功之内注進状被見了」とみえる。
朝鮮との通交
応仁二年(1468)と文明二年(1470)、「北江津」の「太守藤原吉久」と「桜井津」の「土屋修理大夫朝臣賢宗」が派遣した使者が朝鮮に訪れている(『海東諸国記』)。偽使の可能性もあるが、その場合も日本海沿岸の港町として「江津」の名がよく知られていたことがうかがえる。
『邑智郡誌』などは「北江津」を現在の江津市千金、「桜井津」は江津市船津に比定。千金は江川河口部から約4キロメートル、船津はそれよりさらに10キロメートル以上上流に位置している。
江の川水運
江川は水量豊かで川幅が広く、かつ勾配も緩やかであるため、かなり規模の大きい船舶も上流まで遡ることができる。中世には「河上(かわのぼり)」*1、「川下(かわくだり」*2の地名も江川流域に確認できる。現在でも舟津谷や市ノ渡、舟莚など河川水運と関係すると思われる地名が数多く残っている。
また江川流域には、出羽鋼の主産地である邑智郡出羽や久喜鋼山*3、銅ヶ丸銅山*4などが存在する。 銅ヶ丸銅山周辺には、今津や港といった地名も残されている。
鉱山業が大きく発展する戦国期において、鉱物資源がこれら川港から江川に積出され、江津などを経由して日本海海運に乗って広く流通したことも想定される。