ポルトガル出身の薬種商。同国のインド・東南アジアの商館員。ポルトガル初の中国使節の大使として、また『東方諸国記』の著者として知られる。
リスボンの薬種商
ピレスの父親は、ポルトガル国王ジョアン2世付きの薬剤師であった。ピレス自身も王子・アフォンソの薬剤師を勤め、リスボンに店を構えて東方の香薬などを商っていたといわれる。
東インド会社の商館員
1511年(永正八年)4月、インド在任の商館員に任ぜられてリスボンを出発し、同年九月にインドに到着する。1512年(永正九年)四月ごろ、インド総督アフォンソ・デ・アルブケルケから東南アジア・マラッカへ派遣された。マラッカでは、商館の書記兼会計係および香料の管理人の職につき、ジャワなどに派遣される船隊に事務長として参加したりしている。
『東方諸国記』を執筆
『東方諸国記』は、このマラッカ滞在中に執筆された。この中にはレキオ(琉球)についても記されている。レキオ人は、中国やマラッカで交易し、贅沢で精巧な扇、刀剣、独特なあらゆる武器を製造するとしている。
実際には扇や刀剣などは日本からの輸入品とみられる。当時の琉球王国の日本、中国、東南アジアを結ぶ多角的な中継貿易の様子も、うかがうことができる。
中国明朝への使者
ピレスは1515年(永正十二年)二月ごろ、帰国を決意してインド・コーチンまで戻る。しかしここで新任の総督ロポ・ソアレス・デ・アルベルガリアより、中国へ派遣する大使に任じられ、1517年(永正十四年)八月、中国・広州に至る。
ピレス一行は1520年(永正十七年)一月に北京に向かった。しかし前年に広州に来航したシマン・デ・アンドラーデらの横暴や、ポルトガルに駆逐されたマラッカ王の使節の訴えもあり、結局は皇帝に謁見することができずに広州に戻され、投獄されてしまう。
中国で客死
ピレスは帰国かなわず、同行のポルトガル人の手紙から1524年(大永四年)頃に死亡したとされる。 死亡時期については、後に釈放されて中国人と結婚し、1540年(天文九年)ごろに死亡したとする説もある。