戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

火槍(日本) かそう

 中国発祥の火器。火薬を詰めた筒を槍の尖端に付け、点火することで火炎を噴出する。応仁の乱の際、東軍の細川勝元らの陣営に配備された。琉球王国から現物または製造技術が移入されたと推定される。

東軍の新兵器

 東福寺の僧・雲泉太極の日記『碧山日録』応仁二年(1468)十一月六日条によれば、応仁の乱の際、東軍の細川勝元・成之らの陣営には、「串楼、層櫓、飛砲、火槍」などの武具が備えられていたという。この内の「飛砲」は、大和国の工匠が製造した投石機*1であり、「火槍」も何らかの特殊兵器であったとみられる。

 元来、「火槍」とは、筒状の容器の一端を密封して火薬を詰め、それを槍の尖端につけて点火し、火炎を噴出する火器の一種を意味する。12世紀の中国で開発され、14世紀の元末明初には、使い捨ての竹筒や紙筒を用いた「火槍」だけでなく、繰り返して使用できる鉄筒を用いた「火槍」も普及していた。

 この中国の「火槍」は、15世紀の日本の禅僧にも知られていた。文安三年(1446)成立の類書『壒嚢鈔』には、「テツハウと云フ字は何ゾ、鉄炮と書也、紙ニテ作ルヲ紙炮と云也」という記事がある。「鉄炮」と「紙炮」はそれぞれ、鉄製の筒と紙製の筒を用いた「火槍」系統の火器を指すと考えられている。

琉球使節の「鉄放」

 細川勝元らが「火槍」等を備える2年前の文正元年(1466)七月二十八日、琉球王国使節が来朝。将軍に謁見した後、退出する際に門外で「鉄放」一発を発射し、人々を驚かせたという(『蔭涼軒日録』)。琉球使節が使用した「鉄放」は、近世の琉球王国で祭礼や儀仗において礼砲として用いられた「棒火矢」(ヒヤー)に類似した火器であると推定されている。

 近世の「棒火矢」とは、長さ20センチメートル、直径3センチメートルの鉄筒に火薬を詰め、それを一つに束ねて約180センチメートルの柄に付けたものであり、「火槍」の一種とみなされている。15世紀の琉球王国では、既に火器が普及していた*2

 細川氏の「火槍」、『壒嚢鈔』の「鉄炮」、琉球使節の「鉄放」は、いずれも鉄製の筒に火薬を詰め、槍の尖端に付けた「火槍」系統の火器であったとみられる。

「火槍」の入手先

 中国明朝や朝鮮王朝は、日本への火器・火薬の流出を厳禁していた。このため、細川氏の「火槍」は、琉球王国から入手した可能性が高い。

 宝徳三年(1453)に琉球使節兵庫に入港した際、細川勝元は、いち早く人を遣わして琉球船の積載した商品を押さえている。このように、細川氏琉球船と優先的な貿易取引を行なっていた。こうした機会に、「火槍」のような火器を入手し、あるいはその製法・運用技術を得ていたものと考えられる。

 ただし、「火槍」が実戦で活用されたかは不明であり、日本国内で普及することもなかったとみられる。背景には、当時の日本の戦闘に適さなかったことや、火薬の材料となる硝石の入手が困難であったことが考えられている。

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参考文献

  • 中島楽章 「銃筒から仏郎機銃へ―十四~十六世紀の東アジア海域と火器ー」(『史淵』巻148 九州大学文学部 2011)

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京都 足利将軍室町第址

*1:『碧山日録』応永二年正月二十九日条によれば、東軍の陣中から来た人物が、大和国の工匠が東軍の陣営で「投石木」を製造し、その石が当たった所は尽く破壊された、と語っている。太極は、それは「砲」であるとし、唐の李密は機を以って石を発し、攻城の具となした、というエピソードを披露している。

*2:1456年(康正二年)、済州島から琉球に漂着した朝鮮軍の兵士は、帰国後に琉球王国では朝鮮王朝と同型の火器が用いられていることを報告している(『世祖実録』)。