戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

火砲(対馬) かほう

 対馬の前期倭寇が用いた火砲。鋳鉄製。中国明朝から日本に移入されたものとみられる。

対馬の中国製火砲

 1418年(応永二十五年)八月、朝鮮王朝の敬差官として対馬を訪れた李藝は、中国で製造された鋳鉄製の火[火甬]・碗口(バズーカ砲風の小型火砲)を、「賊倭」の処で入手して本国に持ち帰った(『世宗実録』)。朝鮮では、これらの火砲は銅によって鋳造していたが、銅の産出が乏しいため、十分に製造することができなかった。李藝は、対馬で得た鋳鉄製の火砲を試造し、各州県に配備することを提言している。

 当時の朝鮮では、日本の火砲の技術は、倭寇によって捕虜とした中国人から習得したものと認識していた(『世宗実録』)。上述のように、対馬には中国製火砲が移入されており、倭寇が中国沿岸を襲撃した際に、火器を鹵獲した可能性もある。

 実際に運用も行っており、李藝が対馬に赴いた際には、礼砲をもって迎えられたという。しかし、火薬の質が悪く、火力が不十分だったらしい。対馬側は李藝に火薬の材料*1の一つである硝石(焔硝)の提供を要請したが、李藝はこれを断っている(『世宗実録』)。

朝鮮王朝による硝石製造技術の秘匿

 朝鮮王朝は、火薬の調合に必要な人工硝石の製法が、日本に伝わることを強く警戒していた。1426年(応永三十三年)十二月、江原道の沿海部で人工硝石を製造している人民や奴僕が対馬などに逃亡して火薬の製法を伝えることを危惧し、朝鮮東岸での硝石製造を中止している。

 1445年(文安二年)四月にも、全羅道慶尚道の沿海部で製造していた人工硝石を、中央政府で集中的に製造するよう命じている。その理由として、かつて倭寇が捕虜とした朝鮮人を拷問して、硝石の製法を聞き出そうとしたことがあり、沿海部で硝石を製造していたのでは、製法が日本に漏洩する恐れがある、としている。

 1509年(永正六年)四月、朝鮮の中宗は「火炮は倭・野人の知らざる所にして、真に破敵の具なり」と述べている(『中宗実録』)。16世紀初頭、日本と女真では火砲が普及していないとの認識があったことがうかがえる。

参考文献

  • 中島楽章 「銃筒から仏郎機銃へ―十四~十六世紀の東アジア海域と火器ー」(『史淵』巻148 九州大学文学部 2011)

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金田城の景色 from 写真AC

*1:主な火薬の材料には、硝石(焔硝)、硫黄、炭がある。硫黄は薩摩や豊後など日本には多くの産地があり、中国や朝鮮にも輸出されていた。