戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

今倉殿 いまくら どの

 備後南部、芦田川河口部の港町草戸を拠点とした金融業者。草戸千軒町遺跡から出土した15世紀後半の木簡にその名が見える。

草戸に送られた国衙領年貢

 広島県福山市の草戸千軒町遺跡の15世紀後半の遺構からは、多くの木簡が出土している。その一つに、片面に「こいよりしやうせい」、その裏面に「くしかき五(把)くさいち いまくらとのへまいる」と書かれた木簡がある。

 この木簡はその形態から、荷物に添えた付札木簡と考えられる。すなわち「こい」*1という場所から送付した「正税(しょうぜい)」(国衙領からの年貢)に付けられたタグであった。裏面の内容から、送られた国衙領年貢は串柿五把であり、送り先は「くさいち」に住む「今倉殿(いまくらとの)」であったことが分かる。「くさいち」は芦田川河口部の港町・草戸の古名である「草井地」に比定される。

 今倉殿は、草戸を拠点とした土倉(室町期の金融業者)であり、「今」を冠することから、新興の土倉であったと推定される。同時に港町草戸に住む新興の金融業者が、国衙領年貢の収納に関与していたことがうかがえる。

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今倉殿の蔵?

 今倉殿の木簡は草戸の中心区画東縁の掘割から出土したが、その近くには土壁づくりの倉庫、すなわち土蔵が建てられていた。

 この土蔵跡からは、土壁を保護するために貼り付けたと考えられる生子瓦(土壁を保護するために壁の表面にはりつけた正方形の瓦)の破片が大量に出土している。復元すると一辺30.3センチメートルの正方形に復元でき、現在でも各地の土蔵で目にすることができる生子瓦とほとんど同じものであるという。なお屋根瓦は全く出土していないので、瓦葺きではなかったとみられている。

 この土蔵は15世紀前半に建設され、15世紀後半に廃絶されたと推定されている。金融業者である今倉殿が構えた倉庫であった可能性もあるという。

参考文献

  • 鈴木康之 『シリーズ「遺跡を学ぶ」040 中世瀬戸内の港町・草戸千軒町遺跡』 新泉社 2007
  • 鈴木康之 「草戸千軒をめぐる流通と交流」(柴垣勇夫 編 『中世瀬戸内の流通と交流』 塙書房 2005)
  • 広島県立歴史博物館 編 『中世民衆生活と文字ー木簡が語る文化史ー』 2000

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「くさいち」「いまくらどの」が記された木簡。

*1:現在の福山市駅家町の「小井」が想定されている。