戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

双嶼 そうしょ

 浙江省寧波府の近海、舟山列島の六横島東岸の港町。同島は南シナ海から福建・広東沿岸を北上し、あるいは日本から東シナ海を渡って、寧波方面に向かう船舶が経由する水道上に位置する。中国有数の密貿易港として知られ、ヨーロッパの史料には「リャンポー(Liampo)」としてみえる。

密貿易拠点としての始まり

 後年に双嶼討伐を指揮した朱紈によれば、双嶼は元は国家の「棄地」ともいえる場所で、 久しく人も住まない状態だった。一方で、東西に山が向かい合い、南北に小山に隠された水路が通じ、その内側に外界から隔絶された20余里の広さの人目につかない湾がある理想的な密貿易港であったという(『甓餘雑集』)。

 双嶼における密貿易は、1526年(大永六年)に福建出身の鄧獠が、「番夷」(外国人)を誘引したことに始まるとされる(『日本一鑑』窮河話海 巻6「海市」「流通」)。広東に貿易に来た「西洋」*1の商船を、福建人は海滄・月港に導き、浙江人は双嶼に招いたともいう(『籌海図編』巻12開互市)。当初は福建の密貿易者の浙江方面における前進基地だったとみられる。 

 双嶼が密貿易拠点として台頭するのは、1540年(天文九年)に徽州出身の許棟兄弟が、マラッカ・パタニ方面から「仏郎機国夷人」(ポルトガル人)を引き込み、福建の李光頭などとともに密貿易を始めてからであったとみられる(『籌海図編』巻81「寇踪分合始末図譜」)。

日本銀貿易

 1544年(天文十三年)、日本の豊後大友氏が派遣した遣明船が、寧波への入港を拒否されて、双嶼の密貿易に加わった。翌1545年(天文十四年)には、許棟の配下であった王直が、大友氏の遣明船の帰国に同行して来日し、その帰途に博多の日本人を双嶼に引き込んでいる。

 この頃から、日本銀を求めて九州に渡航する中国人海商人も増加していった。双嶼が位置する舟山列島は、生糸・絹・綿布などの主要輸出品の生産中心地である江南デルタに近く、東シナ海を横断して九州に直行する航路の起点でもあった。

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 このため双嶼は、東南アジアから漳州を経て浙江にいたる、南海産品と中国商品の交易ルートと、浙江と九州を結ぶ、中国商品と日本銀の交易ルートが交差する結節点となる。1540年代には、双嶼は中国人・ポルトガル人・東南アジア人*2・日本人などが集結する、東シナ海域における最大の密貿易拠点となったとみられる*3

ポルトガル人の一大密貿易港

 アントニオ・カルヴァンの『新旧発見記』によれば、1542年(天文十一年)にポルトガル人の乗るジャンク船が、シャムのウディア(アユタヤ)市を出発した。目的地はリャンポー(双嶼)だったことが記されいる*4。既にポルトガル人の交易地として、リャンポー(双嶼)が認知されていたことがうかがえる。

 フェルナン・メンデス・ピントは『東洋遍歴記』の中で、リャンポー(双嶼)について、詳しく記している*5。町の人口は3000人で、1200人がポルトガル人、残りは様々な国のキリスト教徒であった。ポルトガル人女性や混血の女性と結婚している者も300人ほどいた。

 主要な交易品は日本の銀であり、どんな商品を日本に持って行っても、3〜4倍になって返ってきたという。町には陪席判事、裁判官、市参事会員などの役職が置かれ、役職は売買の対象だった。病院や慈善院もあり、その運営に毎年3万クルザド以上が費やされていたとしている。ピントは、リャンポー(双嶼)の町が、「インド」*6にある全ての町の中で最も立派で、富裕で、豊かであったと評価している。

明朝の警戒

 1546年(天文十五年)、許棟兄弟と「番人」(外国人)との間にトラブルが生じ、「番人」が中国の村を襲い略奪を働く事件が起こる。許棟・許梓の兄弟が「番人」の貨物を償却しなかったことに起因するという(『日本一鑑』窮河話海 巻6「海市」)。『日本一鑑』は、この騒動が「倭患始生」と朱紈による平定の起こりとしている。

 この「番人」は、『東洋遍歴記』において明朝の双嶼攻撃のきっかけを作った人物として描かれるポルトガル人のランサロッテ・ペレイラに比定される。ランサロッテは、双嶼におけるポルトガル人の4人の顔役*7の一人でもあった(『東洋遍歴記』)。

 1547年(天文十六年)、許棟兄弟が彭亨(パハン)国から誘引した「賊船」と一緒になって福建・浙江地方を荒し回っているとして、明朝では密貿易を厳重に取り締まる事になった。その指揮官として、同年七月に都御史の朱紈が浙江巡撫・福建軍務提督に任命された。

 この年、浙江の寧波・台州を数千人の「倭寇」が襲撃する事件が起こった。事件を調査した朱紈は、密貿易船の船主が全て貴官(身分の高い役人)や大姓(豪族)で、不当に高い値段で外国品を売って利を貪り、時に密貿易商人に対して代価を与えなかったために乱が起こったと指摘している(『明史』巻81)。

双嶼の壊滅

 朱紈は、福建海道副使の柯喬と福建都指揮僉事の盧鏜らを起用し、双嶼攻撃の準備を進めていた(『籌海図編』巻4「福建倭変紀」)。1548年(天文十七年)年四月、双嶼港口に集結した明朝艦隊による攻撃が行われ、明軍は捕縛・溺死者数百名の大勝を得た。盧鏜は入港して倭寇が建てた天妃宮や営房、戦艦を破壊。双嶼における倭寇の拠点はこれ以後無くなり、残党は福建の浯嶼へ逃れた。

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 朱紈は双嶼に防衛拠点を設けようとしたが、結局、閉港を決意。木石を集めて港口を塞ぎ、賊が再び入れないようにして、20年来の盗賊の拠点がはじめて空となった。五月二十五日のことであったという(『籌海図編』巻5「浙江倭変紀」)。

 なお、双嶼の閉港から40余日が経過した後でも、付近の海域を1日に1290余隻もの船が往来していたことが報告されている(『甓餘雑集』)。

双嶼壊滅後

 以後、翌1549年(天文十八年)二月にかけて、盧鏜や柯喬が率いる明軍は、浙江・福建の沿海に散会した密貿易船の追跡と掃討を続けた(『甓餘雑集』)。双嶼から逃れていたランサロッテ・ペレイラやフェルナン・ボルジェスガリオッテ・ペレイラマテウス・デ・ブリトらポルトガル人や、福建系密貿易者のリーダーであった李頭光らは、この作戦の中で捕縛されている。

 許棟の集団も壊滅したが、後にその集団は、許棟配下だった王直によって再編される。王直は舟山列島の烈港に新拠点を築き、勢力を拡大させていく。一方、ポルトガル勢力は広州沖の上川波白澳に拠点を移し、後にマカオ澳門)を得る。また密貿易を行う一方で、囚われたポルトガル人の釈放を明朝と交渉している。

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関連人物

関連交易品

参考文献

籌海図編3(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:中国の西南岸より南の諸地域を指す。シャムやチャンパなど。

*2:1547年、密貿易商人の林剪が、東南アジアの彭亨(パハン)から70余隻を率いて浙江海域に移り、許棟の勢力と合流した(『日本一鑑』窮河話海 巻6「流通」)。

*3:朱紈は、日本・ポルトガル(仏郎機)・彭亨(パハン)・シャム(暹羅)が双嶼に入港するようになり、中国の内地商人(姦民)との取引が恒常化していることを報告している(『甓餘雑集』)。

*4:なお、船は暴風の為に漂流し、北緯32度の地点で、ヨーロッパ人として初めて日本列島を見たとされる。

*5:ただし、メンデス・ピントの情報一般には、誇張や信憑性に疑問がある内容が混在している。このことは、ピントの存命中から指摘されている。

*6:この「インド」は、アフリカ東海岸からアジア沿海部を含む地理概念。

*7:『東洋遍歴記』で挙げられる4人の顔役は、マテウス・デ・ブリト、ランサロッテ・ペレイラジェロニモ・ド・レゴ、トリスタン・デ・ガである。このうち最も主要な位置にある人物として描かれるのはマテウス・デ・ブリトである。