戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

高崎 たかさき

 瀬戸内海航路において、山陽沿岸航路と防予諸島内を突っ切る沖乗り航路の分岐点に位置した港町。 瀬戸内海の重要な寄港地であるとともに、周辺地域における造船を含めた水運活動の拠点となった。

 現在は近世以降の干拓により、港町としての景観は失われているが、中世は船舶の停泊に適した深い入江が存在し、対岸の阿波島によって波から守られた良港であったという。

高崎の知行者

 高崎の名は仁治四年(1243)二月付の「沼田新荘方正検注目録写」に「一、高崎浦四丁二反三百卅歩」がみえる。沼田新荘は沼田小早川氏の庶家、椋梨氏の所領であり、高崎の地頭職も室町期まで代々継承された。

 寛正二年(1461)十月、小早川煕平は周防山口に下向するため、家中に役銭を掛けた。椋梨氏らが役銭を負担したのとは別に、高崎氏が「船一艘 七端帆仕立之」を出している(「小早川家文書)。この頃には高崎の支配は、椋梨氏から離れて高崎氏に渡っていたとみられる。

 さらにその後、高崎は沼田小早川氏惣領家の所領となった。延徳三年(1491)八月、小早川扶平が父敬平から譲られた所領に「高崎浦」がみえる。文明十二年(1480)十月の継目安藤御判礼銭の割当には、「壱貫五百文 高崎御代官仕候間過上 真田民部丞」とある。惣領家の被官である真田氏が、代官として高崎に派遣されていたことが分かる。

瀬戸内海航路の寄港地

 高崎は瀬戸内海航路の寄港地として利用され、多くの旅人が立ち寄っている。康応元年(1398)に足利義満厳島参詣を行った際、三月九日に高崎に舟泊りし、小早川氏の表敬を受けた(「鹿苑院殿西国下向記)。応永二十七年(1420)、朝鮮の回礼使が「多可沙只」に泊まっている(『老松堂日本行録』)。

 その他、天正十六年(1588)には上洛途中の島津義弘が当地で夜明けを迎え(「島津家文書」)、文禄元年(1592)に、坊津に流される近衛信伊が高崎に着いている(『三藐院記』)。

高崎の海運

 文安二年(1445)の『兵庫北関入舩納帳』によれば、この年13隻の高崎船が備後塩や米、豆、布などを積載して兵庫北関に入っている。

 この中には大内氏や六条若宮などの過書を持ち、周防塩600石を含む総計1000石もの荷を積載している船もあった。高崎船が瀬戸内海全域で活動し、かつ巨大な輸送力を持っていたことが分かる。

遣明船派遣の基地

 享徳二年(1453)、第八号遣明船の外官(経営者の代理人としての交渉役)として中国へと渡った楠葉西忍は、その準備のため高崎に下向している。その際に、西忍が必要経費を書き出した記録には、「三百貫船賃、三百貫船作事、四百貫船方四十別人貫十、五十貫船トウ、カチトリ」などと記されている(「大乗院寺社雑事記」)。高崎に下向した西忍が造船から船頭、梶取など乗組員の手配まで遣明船派遣の準備を整えていたことが分かる。

 『兵庫北関入舩納帳』の記録から、高崎には1000石もの積載量を持つ大型船があったことが示されている。楠葉西忍が下向した背景には、高崎に海外渡航も可能な海運力があったものと思われる。

 また造船に関しても先述のように、寛正二年(1461)に役銭負担の代わりとして高崎氏が7端帆の船1艘を仕立てている。高崎が造船基地であったことが背景にあると思われる。

参考文献

f:id:yamahito88:20210708225227j:plain

現在の高崎舟入。高崎は、近世から現在までの埋立て等の造成によって、すっかり中世の面影を失った。

f:id:yamahito88:20210708225307j:plain

高崎の対岸に浮かぶ阿波島。

f:id:yamahito88:20210708225354j:plain

高崎城跡。現在では、石碑以外は跡形もない。

f:id:yamahito88:20210708225437j:plain

高宮神社。看板によれば、中世小早川水軍の舟奉行に崇敬されていたという。

f:id:yamahito88:20210708225514j:plain

薬師寺境内にある室町中期以降とみられる五輪塔や宝篋印塔等の石塔群。当時の水軍拠点としての重要さを物語っている。

f:id:yamahito88:20210708225542j:plain

石塔群の中の宝篋印塔の部材。

f:id:yamahito88:20210708225628j:plain

宝篋印塔の笠部分もかなりある。