戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

杉 重忠 すぎ しげただ

 大内家臣。仮名は新四郎。官途名は大蔵丞。父は杉長忠か。筑前国那珂西郷を知行した。

筥崎宮との確執

 天文十一年(1542)以前*1の十二月六日、杉興重、吉田興種、貫武助ら大内氏奉行人が、筥崎大宮司に対して「無勿体」(とんでもないことだ)と、非難する文書を送った。杉新四郎の知行する「博多外石堂」を、筥崎宮が他所に売却しようとしており、「本家」(石清水八幡宮)が補任していることを挙げ、不可であるとしている(「田村文書」)。当時、筥崎宮社領を売却して、購入者を代官職に補任していたらしい。

 杉新四郎の「博多外石堂」とは、大永三年(1523)二月に、杉長忠が大内義興から与えられた屋敷地と同じ場所*2と考えられる。この時長忠は、筥崎宮領であった筑前国那珂西郷内20町地(石清水社領)と屋敷一所(石堂外、号今畠)の知行を、石清水八幡宮からの代官職補任という形で獲得している(「石清水文書」)。なお長忠の代でも、那珂西郷をめぐって筥崎宮との対立があった。

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 この杉新四郎は、天文十三年(1544)四月二日付の「杉重忠書状」(「石清水文書」)にみえる杉大蔵丞重忠と同一人物とみられる。重忠は行吉生信に対し、自身が知行する那珂西郷20町地の正税と運賃は、毎年厳重に納めてきたと伝えている。杉長忠の活動は享禄二年(1529)まで確認できるので、これ以降に家督は重忠に譲られたと考えられる。

天文八年度遣明使節との関わり

 天文七年(1538)七月一日、大内氏経営の遣明船は、五島奈留浦から博多に回航。風待ちの後、天文八年(1539)三月五日に再び博多を出発する。この間、遣明使節の副使・策彦周良は、博多龍華庵に滞在し、遣明使節メンバーをはじめ多くの人物と交流を持った。そんな中の十月一日午後、策彦は扇2本を携えて杉新四郎の旅屋を訪ね、礼を構じている(『初渡集』)。杉新四郎は重忠に比定できる。

 後の天文十六年度遣明使節において、「杉大蔵丞」が一号船の副土官としてみえ(『大明譜』)、重忠の跡を継いだ杉大蔵丞隆宗に比定されている。天文八年度遣明使節について、重忠も何らかの形で関わっていた可能性は高いと思われる。

大蔵丞隆宗と新四郎英勝

 先述の杉大蔵丞隆宗は、天文十五年(1546)度から天文十七年(1548)度の3か年に、筥崎宮領那珂西郷の正税米5石を、行吉生信を通じて毎年石清水八幡宮に納めている(「石清水文書」)。家督が、重忠から隆宗に移っていることが分かる*3。なお隆宗は、天文十六年度船の副土官として中国明朝に渡るが、寧波に入ることが出来ないまま、嶴山島で客死した(『大明譜』)。

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 隆宗の跡は、杉新四郎英勝が継いだ(『閥閲録』巻160-2)。重忠または隆宗の子にあたると推定される。

参考文献

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マンハッタン? 実は福岡市博多区を流れる御笠川の夕景です。 from 写真AC

*1:この史料には門司飛騨守(依親)が登場する。天文十二年十月、依親の所帯を孫の門司泰親が相続することについて、大内義隆が承認している(『閥閲録』巻170)。これ以前のことと考えられる。

*2:長忠の時は「石堂外、号今畠」と記されている。博多内の地名で、具体的には石堂口すなわち石堂川御笠川)沿いの地域であったと考えられている。

*3:重忠が改名して隆宗となった可能性について、指摘をいただいた。「平朝臣隆宗」(「平」は杉氏の本姓)は、天文六年から筥崎宮に関連した活動が史料上確認できるが、同時代に杉兵庫助隆宗という人物もおり(『閥閲録』巻113)、彼の事績である可能性も否定できない。