戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

泉 大官 せん たいかん

 毛利氏に仕えた医師。朝鮮半島出身と推定される。出雲国に渡来して毛利元就に仕えたという。

毛利元就に仕える

 上関小泉家の家伝によると、泉大官は「唐医」であったという。「大官」は朝鮮李朝の地方郷紳の称号のようなもので、「泉大官」は朝鮮の医術を心得た在地有力者であったと考えられている。

 家伝によれば、大官は天文年間に出雲国に着岸した(『閥閲録』巻166)。当時、尼子氏が籠城していたというから、天文十二年(1543)頃だろう。その折、城攻めに参陣していた毛利元就の体調が悪化したため陣中に召し出され、脈診のうえ医術を施したところ快復したという。この功により領地を与えられ、芸州城下に移って毛利氏に仕えたとされる。

小早川隆景の書状

 大官は以後も、医術による手柄をたてたという。年未詳八月十七日、小早川隆景は大官に宛て、「御局方」の気相(病気)の治療について、緩み無く専念するよう伝えている(「上関小泉家文書」)。

大官の子孫

 その後、大官は安芸国で死去した。玄甫という子がいたが、幼少であった為に領地は召し上げられた。玄甫とその子・宗古は、二代に渡って牢人のまま死去。道宅の代に毛利家の寺社組の医役を務めたが、実子が無く跡職は断絶した。このため道宅の養子で上関宰判医師でもあった小泉玄賀が、御雇いで医役を務めるにいたったという。

 江戸期、上関は朝鮮通信使の寄港地となっており、小泉玄賀の子孫たちも迎接にあたっている。

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参考文献

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上関の町。大官の文書と由緒は、上関小泉家によって伝えられた。