戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

杉 長忠 すぎ ながただ

 大内家臣。仮名は四郎三郎。官途名は大蔵丞。重忠隆宗の父か。大内氏から筥崎宮領那珂西郷の知行を与えられた。筑前国内での社領をめぐる裁判に関わったことが、史料上で確認できる。

豊前国馬岳城の合戦

 文亀元年(1501)七月二十三日、豊前国京都郡の馬岳城詰口において、城を包囲していた少弐資元と大友親治の連合軍を、大内勢が打ち破った。長忠は杉武連の麾下で戦い、「太刀討粉骨」したとして大内義興から感状を得た(「永田秘録杉英勝家証文」)。

 この合戦には、周防守護代陶興房長門守護代・内藤弘春、豊前守護代・杉重清ら大内氏重臣たちが参加*1しており、大内氏の注力のほどが知られる。この後、同年九月に足利義伊の仲介で、大内氏と大友氏の和睦が成った。

筑前国那珂西郷の知行

 永正九年(1512)三月七日、長忠が所望する大蔵丞の官途が、大内義興によって吹挙された(「永田秘録杉英勝家証文」)。

 大永三年(1523)二月二十日、大内義興は杉大蔵丞長忠に対し、筑前国那珂西郷内20町地(石清水社領)と屋敷一所(石堂外、号今畠)の知行を与えた(「石清水文書」)。この二か所は筥崎宮の所領であったが、長忠は筥崎宮の本家である石清水八幡宮から代官に補任され、これを大内義興が認める形をとっている。

 義興は正税米5石を毎年石清水八幡宮に上納することと、余得分である公事足30石地は大内氏への「武役」(軍役)を勤めるよう命じている。荘園の代官請負が、大内氏の知行制の中に組み込まれていることがうかがえる。

 なお、長忠に与えられた屋敷一所の所在地「石堂外」は、「外石堂」とも呼ばれる博多内の地名で、具体的には石堂口すなわち石堂川沿いの地域であったと考えられている。

筥崎宮による還補訴訟

 大内義興の時代、筥崎宮社領は長忠以外にも大内氏被官の知行地に充てられた。これに対し、筥崎宮社家により還補訴訟が起こされていた。

 享禄二年(1529)三月、按察法橋・奏禅は訴訟自体の正当性は認めつつも、訴訟対象の内で杉長忠が知行する5石1貫文については、自身の力が及ばないとしている。その理由として、長忠の知行は「本家」(石清水八幡宮)が補任したものであり、本家への納税も行われていることを挙げている(「田村文書」)。

 ただ大内義隆の代になって、長忠知行地以外は還補が進んだ。天文二年(1533)六月には那珂西郷の田中藤左衛門の扶持地を筥崎宮宮司に打ち渡すよう大内氏奉行人から筑前守護代・杉興長に指示されている。天文五年(1536)閏十月段階で、還補地は8か所分89町4段にものぼっている(「田村文書」)。

筑前国での活動

 享禄二年(1529)八月十六日、太宰府天満宮の満盛院御神領である正覚寺領をめぐる二人の僧侶、玄了と永運の裁判が、筑前守護代・杉興長の居城・高鳥居城(糟屋郡)で行われ、判決内容が興長被官*2から満盛院に伝えられた(「満盛院文書」)。

 しかし執行されなかったらしく、九月十一日に沓屋連祐ら興長被官*3から満盛院に催促が行われた。沓屋連祐らは、裁判結果に両者が納得していたことを強調するとともに、裁判の証文について杉長忠から閲覧希望があり、田富新左衛門尉(永運の父)の所から取り寄せて、長忠に渡したことを伝えている(「満盛院文書」)。この裁判と長忠との関わりは不明だが、少なくとも興長被官と満盛院の両者にとって、長忠は関係者として認識されていたことがうかがえる。

  同年の享禄二年(1529)十一月、長忠は筑前国での別の裁判に関わっている。これは同国早良郡次郎丸名20町地(筥崎宮領)の代官職をめぐる大内氏被官・隅田多門法師と杉興長被官・箱田飛騨守の裁判*4であり、大内氏奉行人のもとに訴訟が持ち込まれていた。

 十一月二十一日、隅田氏方の主張を認める判決が出され、大内氏奉行人・杉興重および野田興方から杉興長へと伝えられた。この時、興長への使者となったのが、長忠だった(「石清水文書」)。判決内容は、同日付で早良郡代・大村興景にも伝えられている*5

参考文献

*1:他にも杉弘依や神代貞総、杉興宣、問田胤世らが関わっている。

*2:鬼村左馬允長直、脇右衛門尉長清、沓屋新蔵人連祐の三名。

*3:沓屋連祐と鬼村長直、杉長所の三名。

*4:この裁判は、隅田と箱田の両者が代官職であることを主張したもの。代官職補任をめぐる経緯は、次のようになっている。もともと早良郡八幡宮領次郎丸名の所務職は文明六年(1474)六月、対馬守新左衛門尉為親に補任されていた。永正三年(1506)十月、為親は所務代職を箱田木工允に売却。大永六年(1526)四月、按察法橋奏禅は、木工允の当名代官職補任をとりなすことを約束。一方で永正十八年、当名代官職は隅田興秀に補任されていた。大永五年(1525)三月、大内氏は興秀の子・多門法師に興秀の跡を安堵。大永七年(1527)十一月、隅田多門法師は、代官職に補任された。つまり八幡宮方と大内方で、別々の人物を代官職に補任した形となっていたことが、争いの原因となっている。

*5:享禄三年(1530)二月二十六日、杉興長は大村興景と隅田多門法師に、代官職を打ち渡すことを伝えた。杉興重と野田興方ら大内氏奉行人にも、判決執行の旨を伝えている。しかし完全には決着しておらず、天文元年(1532)春、箱田飛騨入道が以前の所務職・対馬守新左衛門尉為親の譲状を持って訴訟。杉興重ら大内氏奉行人に却下されている(「石清水文書」)。