戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

杉 隆宗 すぎ たかむね

 大内家臣。官途名は大蔵丞。父は杉長忠か。博多近辺に知行を持ち、大内氏筥崎宮への関与を担った。天文十六年度遣明船の副土官として中国に渡った。

博多近辺の知行地

 杉隆宗は、筑前博多の東に隣接する那珂西郷の一部を知行していた。天文十五年(1546)度から天文十七年(1548)度の3か年に、杉大蔵丞隆宗方から筥崎宮の正税米5石が毎年石清水八幡宮*1に納められている(「石清水文書」)。

 この那珂西郷の知行地は、杉長忠・重忠からの継承と推定される。大永三年(1523)二月、長忠は大内義興から筑前国那珂西郷内20町地(石清水社領)と屋敷一所(石堂外、号今畠)の知行を認められた。あわせて正税米5石を毎年石清水八幡宮に上納することと、余得分である公事足30石地は大内氏への「武役」(軍役)を勤めるよう命じられている。

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 長忠知行の那珂西郷は、天文十一年(1542)以前に杉重忠が継いでおり(「田村文書」)、隆宗は重忠から知行を引き継いだと考えられる。なお天文八年度遣明使節の副使・策彦周良は、博多滞在中に重忠とみられる杉新四郎を訪ねている(『初渡集』)。

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筥崎宮との関わり

 隆宗の活動は、筥崎宮関連の史料からうかがうことが出来る。天文六年(1537)十月十日、筥崎宮法楽に際し、大内義隆冷泉隆豊、安富興宗ら*2と和歌*3を奉納している(「筥崎宮文書」)。

 天文七年(1548)四月、筥崎宮宮司に対し、筥崎宮の旧例社法を守るべしとする大内義隆の意向を執達。天文十一年(1542)四月には、大内晴持(大内義隆の養嗣子)からの太刀一腰と神馬一疋を寄進している(「田村文書」)。

天文十六年度遣明船

 天文十六年(1547)二月二十一日、遣明使節の一行が周防山口を出発。三月三日に博多に着き、その後名護屋的山大島肥前平戸、河内浦を経由して五島列島奈留島に至り、中国の寧波を目指した。全4艘のうち、一号船の土官は大内家臣・吉見治部丞(正頼)であり、そへ(副)土官が「杉大蔵丞」であった(『大明譜』)。この杉大蔵丞は、隆宗に比定されている。他に「御用人衆」として矢田三郎兵衛、門司日向守、杉佐渡守、朽綱右京、福郷治部、御郷源三、矢田民部がいた(『大明譜』『再渡集』))。

 遣明船団は嵐や海賊に遭いながらも、六月一日に寧波の外港・定海に入港。しかし貢期がまだであるとの理由で、明朝側から拒絶された。一行は七月二日に舟山群島の嶴山島に至り、陣屋を建てて停泊し、明朝の受け入れを待つことになった。嶴山島では海賊の襲撃に備え、見晴らしの良い高台に番屋を造り、絶えず「うらもり(浦守)」を行ったという。

 嶴山島での逗留は約6か月に及んだが、この間に隆宗は死去した。その後、一行は三月十日に寧波への入港を果たす。八月二十五日、寧波にて杉佐渡守が「宗領」(惣領?)の杉大蔵丞古淡宗功禅定門の為の法要を営んだことが、遣明使節正使・策彦周良の日記にみえる(『再渡集』)。

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死後の知行

 天文二十一年(1552)九月、杉新四郎英勝は大内晴英から知行の安堵を受けた。その知行地は周防国玖珂郡日積村30石、筑前国那珂郡西郷30石、同国博多津屋敷1町(石堂口号今畠)、同国糟屋郡酒殿村4石5斗であった(『閥閲録』巻160-2)。

 筑前国の那珂西郷30石と博多石堂口の屋敷が含まれていることから、杉長忠・重忠・隆宗の三代の知行が、英勝に継承されていることが分かる。英勝は重忠または隆宗の子にあたる可能性がある。

参考文献

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筥崎宮楼門。

*1:当時、筥崎宮石清水八幡宮末社に位置付けられていた。

*2:他に万里小路惟房(正四位下行鵜右中弁)、持明院基規(参議正三位)、尭渕(権僧正法印)、大神景範(従四位下行前安芸守)、胤秀(権少僧都法眼)、祐信(大法師)が和歌を奉納している。

*3:代々をふる神のしるしもあらはれて霜にかハらぬはこさきのまつ