戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

日積 ひづみ

 周防東部の街道の要衝に位置した市場町。現在の山口県柳井市日積の鍛冶屋原地区には、大内氏の代官・杉氏が屋敷を構え、鉄材料を加工する鍛冶がいたことが遺跡と史料から分かっている。

日積郷南方代官職と杉氏

 中世の日積は、北方と南方に分かれていた。応永七年(1400)九月、大内氏は杉備中守重明の子の杉三郎重茂を日積郷南方の代官職に補任。応永二十年(1413)八月には、日積村内の杉民部丞重茂の跡地をその子杉熊王丸頼明が相続している(「永田秘録」)。

 享和二年(1802)編纂の『玖珂郡志』は、日積村の松ケ段川角(現在の鍛冶屋原地区)に「杉屋敷」という所があり、杉甲斐守の屋敷と言われていたことを記す。現在は杉氏居館跡とも呼ばれ、2002年の発掘調査で多くの遺構や出土品が見つかっている。ここが、日積郷南方を支配した杉氏の居館跡だったと考えられる。なお、杉甲斐守は戦国期の史料でも確認できる。

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日積八幡宮と市ノ原

 日積大里/宮の下地区の大帯姫八幡宮は、往古は日積大元宮あるいは日積八幡宮と呼ばれており、元は宮ヶ原地区にあったという。また宮ヶ原に隣接する鍛冶屋原地区は、江戸期の『享保増補村記附図』によると「市ノ原」と呼ばれており、杉氏居館近くには市が立っていた可能性がある。

 上記の『玖珂郡志』には「大内ノ時代、八幡宮ヲ当山大里ニ勧請」したことがみえるので、宮ヶ原から現在の社地へ遷座していることがうかがえる。応永三十一年(1424)の日積八幡宮棟札に、「欽奉再興日積八幡宮・大檀越平左衛門重秀」とあるので、大内氏の意向を受けた杉重秀が再興に関わったのかもしれない。

 また、この日積八幡宮棟札には、「松ケ旦鍛冶職」の名もみえる。「松ケ旦」は、杉氏が居館を構えた松ケ段を指すと考えられ、「市ノ原」(鍛冶屋原)周辺には杉氏の支配を受けて神社再興にも関わる鍛冶が居たことがうかがえる。

鍛冶屋原遺跡

 鍛冶屋原地区では、住宅地などから鉄滓(スラグ)が大量に出土しており、屋号にもヤハギ(矢作り)、ヤカタ(矢運び)等が現存するという。

 出土した鉄滓(スラグ)の鉄の材料は砂鉄であり、形状と大きさから鍛造工程の遺物であるとの分析結果が出されている。これらのことから、砂鉄によるたたら製鉄の一次製品を取り寄せ、鍛錬して上質の玉鋼を製造する大鍛冶屋が存在し、鉄滓はその産業廃棄物であると推定されている。

 鍛冶屋原の鍛冶は、前述の「松ケ旦鍛冶職」のように15世紀前半には存在が確認される。戦国期の元亀・天正年間にも「鍛冶神右衛門」という鍛冶屋がおり、矢を造っていたという伝承があるという。「鍛冶神右衛門」の名は日積八幡宮の棟札にもみえ、彼もまた八幡宮造営に関わっていたことを知ることができる。

関連人物

参考文献

柳井市日積の鍛冶屋原・岡村・坂川などの地区は、河岸段丘の地形がはっきりと分かる

日積の鍛冶屋原地区

鍛冶屋原地区にある「中世 大鍛冶屋遺跡」の碑

日積鍛冶屋原地区に残る小瀬上関往還。小瀬上関往還は岩国市小瀬から上関町までの約60kmの往還。江戸期、この往還を使って日積の米等が運ばれたという

日積鍛冶屋原一里塚跡付近の五輪塔残欠

鍛冶屋原地区の薬師庵に残る宝篋印塔や五輪塔の残欠

鍛冶屋原地区から見た琴石山。琴石山には事能要害が築かれており、毛利氏の時代、正覚寺守恩や高井氏が城番となった

杉氏館跡があった丘陵地の遠景

杉氏館跡。鍛冶屋原公会堂の近くに看板がある

鍛冶屋原地区にある石塔群

日積の諏訪地区にある諏訪神社。応安七年(1374)、大内弘世が造営したと伝わる

大帯姫八幡宮。中世は日積八幡宮と呼ばれ、杉氏や日積の鍛冶が造営に関わっている

日積の中院(智雲院)地区から見た大帯姫八幡宮

日積の中院(智雲院)地区の観音堂。かつてあった知恩院の名残りであることが、17世紀の『古村記』にみえる。文明十年(1478)、筑前博多に在陣中の大内政弘に、日積の「知恩院」(杉豊後弘重息女弘英姉)が300疋を進上している(「正任記」)