戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

岩国 いわくに

 周防国最東部の錦川河口部の港町。古来より山陽道の要所であり、また錦川流域と瀬戸内海の結節点であった。中世には周防守護・大内氏の有力家臣である弘中氏の拠点となり、周辺には多くの警固衆が存在した。江戸期には吉川氏が岩国城を築いて入部した。

古代の岩国

 養老五年(721)、周防国では熊毛郡から玖珂郡が分立して同国で最も東の郡となった。石国郷はこの玖珂郡で最も東の郷であり、現在の和木町も郷内に含み、安芸国との境目の地であった。陸上の幹線道路である山陽道が郷内を通り、駅馬伝馬に関する交通制度が整備される中で錦川流域には石国駅が設置された(『延喜式』)。

 石国駅の設置場所は不明だが、小瀬峠を越えて錦川を渡るまでの間にあったと推定されている*1山陽道を進む旅人にとって小瀬峠あるいは欽明路峠を通って岩国山を越えるのは難所であり、『万葉集』には「磐国山」を詠んだ歌が収録されている。

 また『万葉集』には、朝鮮半島新羅に派遣された使者が、玖珂郡「麻里布浦」の絶景を詠んだ歌も収められている。この「麻里布浦」については、岩国の麻里布か田布施の麻里府と比定する説がある。

海陸の結節点

 中世、石国郷を中核として石国荘が立荘されたと考えられている*2。嘉禎三年(1237)、石国荘の年貢物である材木板が、周防と安芸の国境を流れる小瀬川に設置された「安芸国御領関所」の役人により「船出浮口」との名称で不当に没収されていることが問題になっている(「新出厳島文書」)。

 「浮口」は「河口」とも呼ばれ、中世の河川や港湾で課す通行料を指す。「船出浮口」というのは、川下しした材木を、瀬戸内海を航行する船に積み替える際に課税したものと考えられている。

 訴えを起こした岩国荘沙汰人等は、石国荘の年貢物に「浮口」が課税された先例はないと主張。一方で負担そのものを否定しているわけではなく、徴収される量が多すぎること*3と、周防国山代荘内の関浜に押し入って材木を暴力的に奪い取ったことを強く非難している。

 これらのことから、錦川や小瀬川の流域から川下しされた材木は、河口近くまで運ばれて倉敷地に一時保管され、瀬戸内海を航行する船に積み替えれて消費地に運搬されていたことがうかがえる。中世の岩国は、錦川流域で生産される物資の「船出」地であると同時に、河川交通に対する課税を行うための「関所」も設置されていたと考えられている。

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 実際に戦国期の永禄四年(1561)、安芸国厳島神社の大鳥居造営に際し、脇柱2本を含む大小5本が岩国白崎八幡宮から伐り出されたほか、脇貫4丁が多田(岩国市多田)から伐り出され、多田と岩国の船16艘で厳島に輸送されている。

 岩国は山陽道の要地であると同時に、錦川と小瀬川の河川交通と瀬戸内海の海上交通をつなぐ結節点でもあった。

中津居館跡

 現在、錦川河口部の岩国市楠町には「中津居館跡」と呼称される中世遺跡がある。その築造は、出土品などから13世紀末から14世紀初頭に遡ると推定されている。

 現地では幅15〜20メートルの土塁の基底部が、東西約120〜140メートル、南北約130〜170メートルにわたって確認されている*4。また木造船の船着場とみられる石組も見つかっている。

 土塁を含む面積は約2万平方メートルにおよぶ。その規模は周防国長門国の守護だった大内氏の居館(山口市)に匹敵する。立地から、錦川や瀬戸内海の水運を経済的背景に力を持った豪族の屋敷と考えられており、具体的には大内氏の有力家臣で岩国を拠点*5とした弘中氏が、居館の主として有力視されている。

 居館の内部には大型の掘立総柱建物跡や、土師器を大量に埋めた一括廃棄土坑などが発見されている。また甕に納められた大量の銭(「一括出土銭」)も出土した。これは、銭の中央の孔に紐を通し、94枚か97枚を一束にし、更にまとめて甕に納めたもの。甕の中には推定5万枚の中国の銭が入っており、44種が確認されている。

江戸期の地誌にみる港町

 江戸期の享和二年(1802)に編纂された『玖珂郡志』には、江戸期以前の錦川河口部の姿が描写されている。錦川北岸の錦見には、かつては船着場であったとする。編纂当時にも「河岸バタ」や「入船出淵」等の地名が残っており、土中から柳葉や柵なども出土したという。

 弘中氏の居城・亀尾城跡の麓にある大円寺の沖は「川尻」と呼ばれ、この辺りに「御船蔵」という所があったことも記されている。また「梶ガ池」の脇までは、大船が来ていたともする。

 錦見の「鍛冶ガ池」は、「氏政」「錦見ノ六右衛門」という二王派の鍛冶が居たことに因むとされ、この池の水で太刀を打ったとする。この「鍛冶ガ池」と「藪土手」の間は「古市」と呼ばれていた。

 編纂当時、中津村の中村から柳原の間にも昔は市があったことが伝えられており、柳原から「鍛冶ガ池」の辺りまで市町が広がっていたことがうかがえる。この市町は、江戸期の吉川氏入部後に岩国城下町に移ったという。

 錦川南岸には「門前村」があった。この地には中世に喜楽寺という伽藍を備えた寺院があり、地名はその門前であったことに因むと推定されている。喜楽寺は、戦国期の大内氏重臣・弘中隆兼の菩提所でもあったという。しかし毛利氏時代、寺は本尊ごと安芸吉田に移されてしまう*6。『玖珂郡志』編纂当時には、方丈の跡や「塔ケ岡」と呼ばれる場所が残っていたという。

周防と安芸の境目

 大内氏安芸国東西条(現在の東広島市から呉市かけての地域)を支配とし、周防国境に接する佐西郡を支配する厳島神主家とも良好な関係を維持していた。しかし大永三年(1523)四月、友田興藤厳島神主を自称し、安芸武田氏と結んで大内氏と敵対。安芸国東西条の拠点・鏡山城出雲国から侵攻した尼子経久に攻略されてしまう。

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 この為、岩国は大内氏安芸国奪回の前線基地として位置づけられた。大永四年(1524)、大内義興・義隆父子が岩国横山地区の永興寺に宿陣しており、永興寺はこの頃には本陣設置にふさわしい施設を備えていたことがうかがえる*7

 天文二十三年(1554)五月、毛利氏が大内氏に叛旗を翻すと、防芸国境は両勢力の「境目」となる。翌天文二十四年(1555)、厳島に向かう陶晴賢も永興寺に本陣を構えた。

 軍記物の『陰徳記』には、大内軍の様子を「錦見、御庄、多田、関戸、川下辺ニ溢レケル」と描写しており、山陽道沿いから海岸部にかけての周辺に分散して滞留していたことがうかがえる。また「兵船数百艘、同所ノ今津ノ河口室木辺ニ掛並ベ置ケル間」ともあり、厳島へ向かうための兵船は、錦川河口部から室木にかけての海岸に掛け並べたとしている。

 天文二十四年十月一日の厳島合戦で大内方は大敗。陶晴賢、弘中隆兼は敗死する。毛利方はただちに周防国に侵攻し、八日以前に「岩国要害」を攻略した(『萩藩閥閲録』巻30)。これ以後、毛利元就・隆元父子が弘治三年(1557)三月に富田若山、防府大専坊に本陣を移すまでの約1年半、岩国の永興寺が周防に侵攻した毛利軍の本陣となった(「防府天満宮文書」)。

 弘治三年(1557)四月に大内氏を滅ぼした毛利氏は、正覚寺守恩を岩国を含む玖珂郡の郡司とし、岩国の代官を粟屋元通*8とした。天正九年(1581)、粟屋元通は備中の忍山相城に在番しているが、元通が指揮する一所衆の中には岩国の地侍である錦見右衛門尉(『萩藩閥閲録』巻169)、白木又三郎(『萩藩閥閲録』巻166)が含まれている。

警固衆の活動

 戦国期の錦川河口部は、警固衆(水軍)の根拠地でもあった。天正十二年(1584)七月、伊予河野氏救援のため毛利氏が警固船を派遣した際、毛利輝元は岩国代官の粟屋元通に対して「岩国船」を急ぎ出発させるよう命じている(『萩藩閥閲録』巻71)。

 これより前の天正十年(1582)、来島村上氏が毛利氏から離反した際、来島村上氏の領地だった能美島広島県江田島市)を攻撃するため弘中河内守、櫛橋玄蕃允*9、加屋伊豆守、同市介、同蔵人が出陣している(『萩藩閥閲録』巻133)。彼らが「岩国船」を構成する警固衆だったと考えられる。

 このうち賀屋(加屋)氏は、錦川河口部の岩国から小瀬川河口部の和木、大竹(大滝)にかけての海辺部の領主であった。厳島合戦で弘中隆兼が敗死した後、その所領や権益の一部*10を継承し、毛利氏の警固衆として編成されたと考えられている。

 毛利輝元が錦川河口部南岸の喜楽寺本堂を解体して、その用材を洞春寺(毛利元就菩提寺)の造営に宛てようとした際、賀屋伊豆守と同久兵衛安芸国草津までの運搬を命じられている(『萩藩閥閲録』巻54)。

 また錦見(錦川河口部北岸)の無量寿寺は、弘治二年(1556)八月、毛利隆元から「岩国警固」のため、寺領内から水夫(かこ)を負担することを定められている(『萩藩閥閲録』巻62)。錦見は、上述のように江戸期の地誌に船着場があったとされたエリアであり、この辺りが錦川河口部の港であったことがうかがえる。

岩国を通った旅人

 周防東部の陸海の要衝であった岩国は、多くの旅人が通り過ぎている。康応元年(1389)三月十一日、厳島を参詣した足利義満は、さらに周防にも向かうべく船に乗って南下し、岩国、由宇、室岡を見ながら玖珂郡神代の沖で一泊。大畠瀬戸を抜け、上関室積を経由して下松に停泊し、周防守護・大内義弘の挨拶を受けた(『鹿苑院殿厳詣記』)。

 天正二年(1574)、イエズス会の司祭フランシスコ・カブラルは、畿内織田信長に謁見するため日本人の修道士ジョアン・デ・トーレスらを連れて肥前口之津長崎県口之津町)を出発し、途中に豊後国や周防山口を経て、陸路で岩国に着いた。当時の岩国には、山口で最初に信者になったうちの一人で名をマチアスという信者がいたという(『フロイス日本史』)。

 カブラルらは和泉堺に向かう船を探し、九郎右衛門という海賊の船に乗ることとなったが、この時カブラルは熱病に罹り、病状はだんだん重くなった。九郎右衛門はカブラルを妻のいる「川尻」(錦見字川尻)*11に連れて行き、昼夜を分たず看病。いったん回復したカブラルは、海路で瀬戸内海を東に進み、途中の塩飽で養生した後に上洛を果たした。

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 天正十五年(1587)三月には、九州に向かう羽柴秀吉安芸国廿日市から厳島を経て岩国の永興寺に宿泊している(『九州御動座記』)。同じく九州に出陣した細川幽斎は、同年七月、復路で防府の田島から船に乗り、上関に寄港した後に厳島に向かった。その船上で岩国山を見て歌を詠んでいる(『九州道の記』)。

 文禄二年(1593)、肥前名護屋から国元の常陸に向かっていた大和田重清(佐竹氏の家臣)は、八月二十七日に岩国に宿泊。見物した後、鮎料理を食し、翌日、安芸国広島に向かって出発した(『大和田重清日記』)。

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岩国城と吉川氏

 関ヶ原合戦後、岩国には吉川広家が入部。横山地区に岩国城を築城し、慶長十三年(1608)に完成させた。

 岩国城は戦国末期の中世城郭を踏襲したもので、軍事的な側面を強く意識した城郭構造となっているといわれる。毛利氏の旧領となった安芸国と境を接し、山陽道を把握できる立地が重視されたと推定されている。

 吉川広家自身も覚書の中で「此表ハ御國堺之事ニ候、自然之時御力御心遣たるへく候間、我等事在郷一遍之覚悟二て無之候事」と述べおり(『吉川家文書』)、国境として特別に配置されていることを強調している。

 城下町の骨格を成したのが横山と錦見であった。横山は上級家臣団の居住区であり、錦川を挟んだ錦見には大明小路が開かれて、城下町の大手と位置付けられた。

 大明小路には武家町が形成され、その南側の2本の街路には町人町が形成された。玖珂町や柳井町といったように、玖珂や柳井から商人を呼び寄せて集住させた町、さらに材木町や魚町といった職名に由来する町などが並ぶ。これらは岩国七町と呼ばれた。

関連交易品

参考文献

  • 藤田千夏・秋山伸隆 「岩国城下の前史」 (岩国市 編 『錦川下流域における岩国の文化的景観保存調査報告書』 岩国市 2019)
  • 上杉和央 「岩国城岩国城下町のプラン」 (岩国市 編 『錦川下流域における岩国の文化的景観保存調査報告書』 岩国市 2019)

  • 岩国市史編纂委員会 編 『岩国市史 通史編一』 2009
  • 岩国市 「中津居館跡の概要」 2015 

    https://www.city.iwakuni.lg.jp/soshiki/55/2990.html

  • 岩国市編纂委員会 編 『岩国市史 史料編一 自然・原始・古代・中世』 2002

岩国城天守から眺めた錦川下流

今津川橋から見た錦川(今津川)の河口部

中世、錦川河口部の中洲にあった中津居館跡の土塁跡

中津居館跡の土塁跡

中津居館跡から出土した一括出土銭。現在は岩国徴古館に展示されている

瑞光寺の跡地にある薬師堂公園。現在は薬師堂のみが残されている。瑞光寺の建立年代は不明だが、「瑞光寺殿立峰建公大禅尼」の位牌の裏に「応永十二年(1405)二月廿一日逝去」とあると江戸期の『玖珂郡志』に記されている。

錦川河口部の中津にあった「麻布里の浦」を伝える看板。

今津川橋南詰から見た白崎八幡宮

白崎八幡宮の社殿

西岩国駅付近から見た亀尾城跡の遠景

亀尾城跡から見た錦川(今津川)河口部。麓の大円寺の沖は「川尻」と呼ばれ、江戸期には「御船蔵」の地名が残っていたという。

普済寺。同寺は、中世にあった無量寿寺の跡地に再興された。隣接して琥珀院があった。無量寿寺は毛利氏から水夫の負担が命じられており、水運と深い関わりがあったことがうかがえる。また弘中隆兼は厳島合戦を前に、万が一の際は琥珀院に預けてある重代の文書や太刀を取り寄せるよう伝えている。

大明小路にある細田写真館。昭和初期の建築。西岩国駅から錦帯橋までストリートには、他にも近代建築を見ることができる

大明小路。江戸期、上級武士が住んだ横山から錦帯橋を渡った先にある大明小路が城下町のメインストリートだったという

錦川に架かる錦帯橋。全長225m。水面からの高さは最大10m。
延宝元年(1673)、城館のある横山と城下町の錦見との間に創建された。

横山地区の永興寺。延慶2年(1309)、大内弘幸によって創建されたと伝わる。大内氏は安芸侵攻時、毛利氏は周防侵攻時にこの寺に陣を敷いた。また羽柴秀吉など重要人物の宿泊場所としても利用された。

横山地区にある香川家長屋門。香川家は岩国吉川家の家老を務めた。

昌明館の長屋。昌明館は寛政5年(1793)、岩国藩主吉川経倫の隠居所として建築された。現在は長屋二棟と門が残っている。

昌明館から見た岩国城

横山地区の旧目加田家住宅。目加田家は近江国出身で、天正年間に吉川元春に仕えたといわれる。

岩国城の旧天守台。岩国城は慶長十三年(1608)に竣工し、元和元年(1615)に破却された。

岩国城空堀。幅約19.6メートルで深さ約10メートル。敵の鉄炮による攻撃を意識して造られたと推定されている。



岩国城北の丸の石垣。この周辺の石垣は一国一城令の後も、山の麓にあった御土居の保護のために残されたという。

岩国城の復元天守閣から見た岩国の横山地区。このエリアにある永興寺には、戦国期に大内義隆陶晴賢毛利元就が陣を敷き、後に羽柴秀吉も宿泊している。江戸期には、岩国吉川家の上級武士たちの居住区画となった。



*1:石国駅の場所については、関戸に比定する説と、後の岩国荘の立荘の中心となる御庄、多田の地に石国駅家があったとする説がある。

*2:石国荘の史料上の初見は、鎌倉初期の正治二年(1200)の吉田経房処分状案とされる。

*3:480枚中135枚。通常「浮口」は10分の1であるから48枚。

*4:土塁の外側には堀のような大きな溝状の痕跡が見つかっており、かつては居館の周りを堀が廻っていた可能性もあるという。

*5:錦見の亀尾城跡が弘中氏の城と伝えられている。

*6:年未詳、毛利輝元は喜楽寺本堂を解体して、その用材を毛利元就菩提寺である洞春寺の造営に宛てようとしている(「厳島野坂文書」)

*7:天文九年(1540)に尼子氏が安芸国吉田の毛利氏本拠に侵攻した際にも、大内義隆・恒持父子は岩国に出張して陣を敷いている(『房顕覚書』)。

*8:粟屋元通は毛利氏の有力譜代家臣である粟屋縫殿允家の出身。

*9:本拠は和木。その屋敷地は、現在は和木町立和木小学校の敷地となっている。小瀬川河口を間近に望む川沿いに位置する。

*10:弘中氏が代々継承していた白崎八幡宮神職も賀屋氏に渡っている。

*11:「川尻」は広島県呉市川尻町とする説もある。