戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

防府宮市 ほうふみやいち

 中世の佐波川下流周防国府の西隣に位置する港町。松崎天満宮*1門前町でもあった。周防国中部の中心的な物資集散地として栄えた。

松崎天満宮の門前市

 鎌倉末期成立の「松崎天神縁起絵巻」には、既に店舗らしき板葺きの小屋が何軒か描かれている。そこから町場が形成されるのは、15世紀中期ごろと推定されている。

 成立当初の宮市は、松崎天満宮の管理下にあった。大専坊*2が任命する市目代が、市全体の管理、及び佐波川河岸の港(津)に荷揚げされる物資に対する津料の徴収を担当していた。この市目代は、文明十年(1478)に史料上に初めてみえる。この頃までに、宮市が大きな発展を遂げていたことがわかる。

兄部氏

 15世紀後半、守護(戦国)大名・大内氏は、この天満宮の津料徴収権を保障した。さらに、兄部氏を合物役司として商人を統括させることで、宮市を支配下に置いていた。城下・山口への、物資供給地として位置づけたものといわれる。

 16世紀後半、兄部氏が作成した偽文書によると、同氏は、東は富田市、西は賀川市、北は大内・得地市の範囲の合物商人を統括できるとある。ここから、兄部氏および宮市の商業圏の範囲をうかがうことができる。

津料闘争

 宮市は、これら周辺諸郷村の物資売却地として密接な関係にあった。しかし先述の津料徴収をめぐっては、たびたび対立が生じた。

 大永五年(1525)、「こあきんど」と呼ばれる物資生産地(在地)の商人のうち、炭薪を扱う者が、宮市での津料徴収をきらって三田尻に荷を廻送している。さらに享禄元年(1528)には、この在地商人たちが、村落を超えて「惣郷なミ」という連合体を形成し、津料忌避闘争を展開していたことが史料にみえる。

 毛利氏時代においても、鈴屋村の木売・松売をする商人たちが、津料を忌避している。これら津料をめぐる闘争は、16世紀を通じて頻発している。

関連人物

参考文献

  • 鈴木敦子「中世後期における地域経済圏の構造」(『日本中世社会の流通構造』) 校倉書房 2000」

f:id:yamahito88:20210725165202j:plain

天満宮の重層楼門。建久六年(1195)、国司・重源により、本殿、廻廊とともに建立されたのがはじまり。

f:id:yamahito88:20210725165238j:plain

松崎天満宮が麓に鎮座する天神山の中腹から眺めた宮市。

f:id:yamahito88:20210725165300j:plain

江戸期には、大名の参勤交代の際の本陣となった兄部家の屋敷。

f:id:yamahito88:20210725165350j:plain

防府宮市の東西軸を構成する旧山陽道国分寺前の風景。

f:id:yamahito88:20210725165416j:plain

国分寺仁王門。文禄五年(1596)に毛利輝元が再建した。門内に室町期に製作された左右一対の仁王像を安置している。

f:id:yamahito88:20210725165453j:plain

周防国衙跡。

f:id:yamahito88:20210725165516j:plain

阿弥陀寺仁王門。建久年間の創建と伝えられるが、現在のものは17世紀後半に原型に再建されたもの。

*1:防府天満宮。延喜四年(904)、菅原道真の死を知った菅原氏一族の周防国司・土師信貞が「松崎の社」として創建した最古の天神社。太宰府天満宮北野天満宮と並ぶ日本三大天神の一つ。

*2:松崎天満宮境内で萬福寺と総称される九つの社坊の一つ。萬福寺別当として中心的な役割を担った。円楽坊と並ぶ最も古い社坊であり、延喜四年(904)、国司・土師信貞が「松崎の社」(松崎天満宮)を創建した際に、円楽坊とともに創建されたという。