周防国の大畠瀬戸の本州側に位置した港町。瀬戸内海の航路の要衝であり、また難所としても知られた。
大畠の鳴門
大畠瀬戸は現在の山口県東部にあり、本州と周防大島(屋代島)に挟まれた海峡。古くは「万葉集」に「大島の鳴門」として歌に詠まれている。
大畠の名称の早い例では、康応元年(1389)、将軍足利義満一行の瀬戸内海の船旅を記した「鹿苑院殿厳島詣記」に「大畠のなるととて、しまじまあまたある中を、かなたこなたに舟どもこぎわかれて、末にめぐりあふめり」とある。当時、いくつもの舟が大畠瀬戸を行き交っていた様子を知ることができる。
また「大島の鳴門」から「大畠の鳴門」への名称の変化からは、瀬戸内海通行の視点が大畠側に移行したことを示しており、大畠に海事に携わる人々の集落が形成されていたことが推定される。
大畠の水運
文安二年(1445)の兵庫北関の関税台帳『兵庫北関入舩納帳』によれば、この年の十二月、四郎衛門を船主とする大畠船籍の舟が米120石、豆50石を積載して兵庫北関を通過している。このごろには大畠を基地とする、廻船が存在したことが分かる。
大畠の海賊
朝鮮の『海東諸国記』によれば、応仁元年(1467)に「大畠太守海賊大将軍源朝臣芸秀」というものが、朝鮮政府に使者を派遣している。偽使の可能性もあるが、その場合も、大畠がよく知られた港で、かつ海賊の拠点であったことが背景にあると推定される。
文明十八年(1486)に遣明使僧が京都に送った報告によれば、遣明船は大畠に滞留したが、このあたりの海上には海賊が多く浮かんでいるということであった(『陰涼軒目録』)。また寛正四年(1463)には大畠の守衛兵が海賊を撃ち、首を大内氏に届けている(『大内氏實録』)。
先述の「海賊大将軍源朝臣芸秀」の存在もあわせれば、大畠瀬戸を抑えて関料を徴収する海賊衆が大畠を本拠に活動し、同時に大畠瀬戸の通交をめぐって海上勢力間の武力衝突も起こっていたのかもしれない。
海上交通の要衝
海上交通の要衝としての地位は、16世紀後半に周防・長門を支配下に置いた毛利氏の時代も変わらなかった。天正八年(1580)三月、毛利氏は敵対する織田氏方を経済封鎖するため、瀬戸内海の各要衝での織田方の船の抑留を支配下の海上勢力に命じている。この中で柳井・大畠について、屋代島衆に警備を担当させている。
また慶長の朝鮮出兵の際には、朝鮮の戦況を知らせるため、鞆、蒲刈、大畠、天神国富(防府)、下関に早船2艘、馬2匹づつを常備しておくように、毛利輝元が豊臣秀吉から命じられている。
参考文献
- 大畠町教育委員会・編 『大畠・石神地区伝統的建造物群調査報告書』 2001