戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

佐甲 藤太郎 さこう とうたろう

 赤間関の有力商人。問丸役として伊藤氏とともに赤間関町衆を束ねた 。

海賊と戦う

  天文二十三年(1554)以前、海賊船6隻が、瀬戸内海から筑前海域に進出した。藤太郎は、赤間関の地下人とともに警固船を建造。戻ってくる海賊と赤間関沖で合戦し、海賊1名を討ち取った。その勲功について、長門守護代内藤興盛から褒賞されている(「佐甲家文書」)。

赤間関問丸の継承

 永禄九年(1566)から元亀元年(1570)の間の九月、赤間関問丸であった先代の佐甲三郎左衛門尉が病死した。毛利氏奉行人・児玉元良は、赤間関代官の赤川元忠と堀立直正の両名に、裁判をもって佐甲氏の跡目を安堵することを命じている。

 天正年間、藤太郎が赤間関問丸として活動しているので、佐甲三郎左衛門尉の跡は藤太郎が継いだものと考えられる。

海賊衆との交渉

 天正二年(1574)十一月、上関村上武満が、佐甲籐太郎の求めに応じて、佐甲三郎左衛門尉の手次として、上関の通行許可・通行税免除を認めている。この時期、藤太郎が三郎左衛門尉の跡目を継承して赤間関問丸に就き、瀬戸内海流通に直接関わるようになっていることが分かる。

 籐太郎は、瀬戸内海全域に影響力を持つ能島村上氏にも交渉を行っている。天正十三年(1585)三月、能島村上元吉は、藤太郎の求めに応じて「紋幕」を与え、「海上無異儀往返」を保障している。

参考文献

  • 岸田裕之「人物で描く 中世の内海流通と大名権力」(『海の道から中世を見るⅡ商人たちの瀬戸内』) 広島県立歴史博物館 1996
  • 岸田裕之「大名領国下における赤間関支配と問丸役佐甲氏」(『大名領国の経済構造』 岩波書店 2001)