芸予海峡部に浮かぶ、蒲刈島の東岸に位置する港町。中世、瀬戸内海に播居する海賊の拠点であり、航路の要衝、水運の基地としても栄えた。
中国の文献にみえる
戦国期、蒲刈は日本国内ではよく知られた港だった。明の嘉靖三十五年(1556)に来日した鄭瞬功の著書『日本一鑑』に付載された地図には、瀬戸内海と思われる所に「釜雁」(蒲刈)と「宮島」(厳島)、「志波久」(塩飽)の三つの島が描かれている。
蒲刈の水運
室町期の蒲刈の水運の状況は、『兵庫北関入船納帳』からうかがうことができる。これによると周辺諸港の船が運んでいる備後塩を、蒲刈船は運んでいない。かわりに米、豆、布などを運んでいる。特に豆の総運搬量は1500石にのぼり、周辺諸港と比べ、圧倒的に多い。蒲刈船積載の豆の多くは豊後斗、及び豊前斗で計られており、北九州産のものを運んでいたのかもしれない。
また、船の中には大内氏の過書(関所通過の許可証)を持ち、米550石、マメ100石、布28束と総計650石を超える大型船舶も存在している。当時の蒲刈船の、巨大な輸送力がうかがえる。
朝鮮外交官が見た蒲刈の海賊
応永二十七年(1420)、日本を訪れた朝鮮の高官・宋希璟は『老松堂日本行録』の中で、自身が寄港した蒲刈について記している。これによれば蒲刈は「王令の及ばぬ」海賊の巣窟であり、東西の海賊がいた。また「東から来る船は、東賊一人載せ来れば、則ち西賊害せず、西から来る船は西賊一人載せ来れば、則ち東賊害せず」としている。これは、海賊間の上乗りについて記しているものと思われる。
このことから当時、蒲刈が海関のような役割を担う海路の要衝であったことがうかがえる。なお宋希璟が蒲刈で出会った僧体の魁首は、流暢に朝鮮語を話していたという。
瀬戸内海航路の寄港地
蒲刈には、瀬戸内海を往来する多くの船が寄港した。その一人、京都東福寺の梅霖守龍は天文二十年(1551)三月、周防国での年貢徴収の任務を終えて京都へ帰還する為、宮島で室津の大船に乗船し、音戸の瀬戸を経て蒲刈に投宿した。そこには類船が三艘停泊していたという(『梅霖守龍周防下向日記』)。廻船の客を泊める船宿も、蒲刈にはあったことが分かる。
文禄五年(1596)四月、明の皇帝からの使者が来日する際、毛利氏は領内の蒲刈と下関、上関、鞆という4つの港での接待手配を行っている。蒲刈以外の三港は毛利氏奉行人が接待役を担当するが、蒲刈のみは「隆景請取」とされ、小早川隆景が担当している。
前関白・近衛信伊の評価
前関白・近衛信伊は、寄港した蒲刈についてネガティブな評価をしている。信伊は文禄三年(1594)三月に薩摩坊津に向かう途中で蒲刈に投宿。「ナニノ無興島也、家三十間アマリアリ」としている(『三藐院記』)。
関連人物
参考文献