戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

坊津 ぼうのつ

 リアス式海岸と後背の山地によって守られた良港を持つ九州西南端の港町。地勢的条件から、琉球、中国に対する貿易拠点を担って栄えた。

相州家島津氏の港

 坊津は加世田や鹿篭などの平野部と、陸路で結ばれていた。16世紀中頃、坊津は薩摩半島西南部地域を拠点として勢力を拡大した相州家島津氏の強い影響下におかれる。同氏の中心人物である島津忠良が天文八年(1539)に加世田別府城を攻略して、この地に居を構えたことも、加世田の外港としての坊津の重要性を高めたと思われる。

 天文十五年(1546)、同氏の保護を受ける一乗院は後奈良天皇の勅願所となっている。相州家島津氏の隆盛にともない、坊津もまた繁栄していたことが分かる。

硫黄の集積港

 天文十二年(1543)の史料に、坊津における島津氏から幕府への硫黄引渡しの件がみえる。このことから坊津は、その南沖の硫黄島で産出され、中世日本の主要な輸出品であった硫黄の集積港でもあったとみられる。

 なお天文十一年(1542)閏三月、種子島氏の内訌の調停のために出兵した新納康久は、六日に坊津から出船して夜に硫黄島に着き、翌日屋久島に着岸している(『貴久公記』)。坊津が硫黄島屋久島への渡航拠点であったことがうかがえる。

海外交易

 坊津には硫黄以外にも輸出、輸入品が集散されたことが推定される。 坊津の一乗院跡や泊浜からは、青磁擂鉢など希少な類例を含む多くの中国産陶磁の他に、ベトナム産の鉄絵もみつかっている。

 永正十三年(1516)、備前連島の商人・三宅国秀琉球渡航のために坊津に寄港し、ここで島津氏に殺害されている。中国や東南アジアの製品は、琉球経由で坊津にもたらされた可能性が考えられる。

海賊衆・能島村上氏

 なお国秀殺害事件については、瀬戸内海の海賊衆・能島村上氏今岡通詮が事件の内容を島津氏に問い合わせている。今岡氏は天文年間に堺と薩摩とを往返する商人から駄別料を徴収しており、能島村上氏の警固の範囲が坊津にまで及んでいたことがうかがえる。

海外に知られる

 天文十五年(1546)に薩摩半島の山川に来航したポルトガル人のジョルジェ・アルヴァレスは、フランシスコ・ザビエルに提出した「日本報告」の中で、九州北西および西側の諸港として博多や山川、鹿児島などとともに「boo(坊)」を挙げている。

 弘治二年(1556)に日本に来航した鄭瞬功も、著書「日本一鑑」桴海図経巻之一の中で九州諸港の名前として「山川」や「志布志」、「油不郎(油津)」などとともに「棒津(坊津)」を挙げている。

 また『日本一鑑』では「手銃」の生産地の一つに、「棒津」が挙げられている。16世紀の中・後期、坊津では国内外の人・物・技術・情報が交錯しており、国際港湾の様相を呈していた。

衰退

 しかし天正十五年(1587)、島津氏が国人・頴娃氏を排除し、鹿児島湾の出入り口に位置する港町・山川を掌握すると、相対的に坊津の地位は低下した。

 文禄三年(1594)に先述の近衛信輔が、坊津に配流される。信輔の日記「三藐院記」には、「近年殊更衰微せらるよしなれハ聞きしにかハり人家もすくなく、人の往来もまれにして」「職人賣買もなく」などと記されている。

 それでも坊津の信輔のもとに、しばしば唐人が訪れて作詩を披露したり氷砂糖などを献上したりしている。依然として対外貿易港としての機能は、失われていなかったものと思われる。

参考文献

  • 橋口亘 「中世港湾坊津小考」 (橋本久和・市村高男 編 『中世西日本の流通と交通』 ) 高志書院 2004