戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

今岡 通詮 いまおか みちあき

 能島村上氏に属す今岡氏の一族か。官途名は民部大輔。天文二年(1533)頃の十一月、薩摩島津氏に琉球渡航を打診した。

島津氏との交渉

 通詮は島津氏に宛てた書状の中で、先年に起きた薩摩坊津での三宅国秀一行の殺害事件の経緯を了承したことを伝え、自身の琉球国への下向に際しての警固と島津領における港湾の借用を要請している。

 この中で通詮は、「公方様」(将軍)の下知で琉球に向かっていた国秀が殺害されたことで、国秀の一類らが薩摩島津氏に対し遺恨を含んでおり、いったんは自分もこれに同調したが、島津氏の説明で納得したとしている。

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島津氏の立ち回り

 どうも島津氏は、琉球国が「武略」によって国秀を殺害したのだと説明したようである。一方で島津氏は天文三年(1534)九月、琉球国に宛てて、国秀の一類(おそらく今岡氏を指す)が鬱憤を含んで琉球への渡航を企てていると連絡。彼らは将軍の下知を受けているが、これを阻止するつもりであることを伝えている。

通詮の人物像

 通詮の書状や島津氏の琉球宛の書状からは、通詮が幕府や連嶋の国秀一味と非常に近い関係にあることがうかがえる。また通詮から島津氏への書状では、琉球渡航の警固について「琉球国江一警固申付度」としている。表現方法から、かなりの実力者とも推定される。

 今岡氏は、天文年間に今岡伯耆守が堺と薩摩とを往返する商人から駄別料を徴収していたことが史料にみえる。南九州経由の中国製品輸入ルートの警固に関わっていたことが推定される。

 通詮の下向も、何らかの船舶の警固を目的としていたのではないかともいわれる。とすれば、戦国期の能島村上氏の警固の範囲は、坊津あたりまでであった可能性がある。

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参考文献

  • 黒嶋敏 「琉球王国と中世日本―その関係の変遷―」 (『史学雑誌』109-11) 2000