戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

前伯耆守 通定 さきのほうきのかみ みちさだ

 室町期の伊予国守護・河野氏の被官。在京中の当主と接触する立場にあった。一方で京都の東寺からは海賊と認識されており、東寺領弓削嶋荘の年貢徴収を請け負った。後の海賊衆・来島村上氏に連なる人物ともされる。

海賊からの文書

 東寺には、応永十一年(1404)十一月に前伯耆守通定が発給した文書が保管されている。端裏には、東寺によって「関方新着応永十一十二十四弓削年貢事」と書き入れられている(「東寺百合文書」)。「関」とは海賊を意味する*1。東寺が通定を「関方」つまり海賊と認識していたことが分かる。

伊予国守護からの呼び出し

 応永十一年(1404)、通定は伊予国守護・河野通之から「所用の子細」があるとのことで呼び出され、上洛した。河野通之が当時在京していたためとみられるが、通定が守護・河野氏と近い関係である事がうかがえる。

 河野通之の用件は、「唐船の事」だったらしい。この年の七月、明室梵亮を正使として派遣される遣明船のことと考えられる。通定は、唐船のことについて「公方」(足利義持)から仰せ付けられることがあって、急いで万事を投げ打って下向したという。

唐船警固

  通之が通定に相談した「唐船の事」とは、遣明船警固のことと推定されている。後に永享六年(1434)に第9次遣明船が帰朝する際は、遣明船警固のために「四国海賊并備後海賊等」を北九州小豆島(長崎県的山大島)に派遣するよう、幕府奉行人が管領と山名氏に命じている(「満済准后日記」)。

 公方から「唐船」警固を命じられた通之は、急遽、家中で海上軍事力を有している通定を呼び寄せて、対応を協議したものと考えられる。

弓削嶋荘をめぐる状況

 通定は上洛した際、東寺の荘園支配に関わっていたと思しき成身院公厳*2に面会している。上述のように、この時通定はすぐに下向したため、十一月に改めて成身院に宛てて書状を送った。

 目的は「弓削嶋請足之事」つまり、通定が委任されていた東寺領弓削嶋荘の所務請負(荘園年貢の徴収や管理の代行)のことであった。また「委細小泉より注進あるべく候哉」という文言もあり、現地では沼田小早川氏庶子家・小泉氏が関与していた状況がうかがえる。

 同時期の別の史料では、東寺は「小早河小泉安芸入道、山地以下の悪党に同意せしめ、押妨を致す」と記している。弓削嶋荘は、小泉氏や山地(山路)氏ら諸勢力の押領で年貢の収取が、うまくいっていなかった。

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通定以後の弓削嶋荘所務職

 上洛した際、通定は成身院公厳に、請負額を「十結」(銭1貫文)と提案していた。後に、所務請負の額は結局十結で話がついたらしい。公厳は別のところで、十結が弓削島から到着したこと、東寺はせめて十五結は欲しいと考えている事などを述べている。

 弓削嶋荘については、応永二十八年(1420)八月、村上右衛門尉という人物が、河野通元から「伊予國弓削嶋所務職」を命じられている。命令を伝える文書内には、「東寺より数通の請状の旨に任せて」という文言があり、東寺と右衛門尉との間に以前からつながりがあったことをうかがわせている。あるいは、右衛門尉は通定の近親者だったのかもしれない。

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参考文献

  • 山内譲「室町期の海賊による荘園請負と唐船警固」(川岡勉・古賀信幸 編『西国における生産と流通〈日本中世の西国社会2〉 清文堂出版 2011)

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弓削大橋から眺めた下弓削地区。

*1:永享六年(1434)、能島村上氏は「関立」と呼ばれている(「足利将軍御内書并奉書留」)。

*2:「成身院」は、醍醐寺子院の成身院を指すとみられる。醍醐寺系の人物が東寺領荘園の支配に関わっている例は、ほかにも見ることができる。