戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

三宅 国秀 みやけ くにひで

 備中連島の「海賊」、あるいは商人。官途名は和泉守。 永正十三年(1516)、薩摩国坊津に12艘の船舶を率いて停泊中に、島津氏の襲撃を受けて殺害された。

島津氏からの視点

 近世、島津氏が編纂した史料によると、永正十三年(1516)に坊津にやってきた国秀の目的は、琉球征服であったという。島津氏は将軍に討滅の許可を得て、六月一日、国秀一行を皆殺しにした。その後、大永元年(1521)四月、国秀との関係は不明ながら、備中国の兵船が坊津を焼き払うという事件が起こっている。

 また天文二年(1533)頃、伊予の今岡通詮が島津氏に使者を送ってきた。上記の件で遺恨を持つ国秀の一類に、通詮は同調しようとしたものの、島津氏の事情説明で納得したことなどを伝えている。

国秀は琉球国に殺された?

 一方で、三宅国秀が琉球を征服する動機は、よく分からない。さらにこの事件は、島津氏が琉球への通行独占を狙っていた時期に重なっている。このことからも、島津氏側の史料は信頼性を欠くといわれる。

 この事件に関して唯一、島津氏側の史料ではない今岡氏の書状によれば、国秀は「公方様」(将軍)の命令によって琉球へ下ったという。また島津氏は、今岡通詮に対して琉球国が「武略」によって国秀を殺害したと説明していたらしい。

国秀殺害の真相

 国秀は「和泉守」を官途としていた。当時、琉球貿易の拠点であった和泉国・堺の町衆・三宅氏との関係が指摘されている。加えて連嶋を含む備中国は幕府要職にある細川氏一族の所領でもある。

 このことから、国秀は堺商人、あるいはその背後の幕府の意向で琉球へ向かい、その途上で島津氏によって討滅された、というのが真相に近いと思われる。

参考文献

  • 『新修 倉敷市史2 古代・中世』 1999

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野間岳から坊津を望む from 写真AC