杵築大社の御師。杵築の商人。石田彦兵衛尉とも呼ばれた。父は坪内重吉。兄弟に孫二郎、二郎がいる。尼子方についた父や兄弟とは異なり、毛利氏に味方した。
毛利氏の出雲国支配
永禄五年(1562)七月、毛利氏の軍勢が出雲国内に進出し、尼子氏の居城・富田月山城に迫った。彦兵衛尉の父重吉と兄弟の孫二郎、二郎らは尼子氏に味方し、富田城に籠城した。
しかし、彦兵衛尉は父らと行動を別にし、毛利氏に味方した。富田城で籠城戦が行われていた永禄七年(1564)九月、彦兵衛尉は毛利元就から「杵築相物親方職」を安堵された。「晴久裁許判形之旨」とあるので、弘治三年(1557)に尼子晴久が、彦兵衛尉の兄弟・孫二郎を「杵築相物親方職」と認めた判物を根拠としての補任だったことが分かる。晴久の判物では、「杵築相物親方職」の職掌について、鳥居田上下川の範囲における輸送業者や商人らを統括し、「有様役」を徴収・納付することとしている。
尼子氏滅亡後の永禄十一年(1568)三月には、杵築の領主・国造千家義広から「祐源職」に任じられた。この補任は「慶勝判形」が根拠として挙げられている。これは、永禄元年(1558)に国造千家慶勝が、彦兵衛尉の父重吉を「杵築祐源大物小物親方職」とした文書を指すとみられる。
出雲国で毛利氏の支配が進む中で、彦兵衛尉は父や兄弟の役職・権益を継承していったことがうかがえる。
彦兵衛尉の婚姻関係
彦兵衛尉の妻は、杵築で参詣宿を経営する越峠の七郎大夫の娘であった。妻との間には米藤丸(あるいは米童丸)という子がいた。
永禄十二年(1569)三月、七郎大夫は彦兵衛尉に宛てて、自身が保有する尼子氏旧臣・池田氏と同氏家来知行分の杵築大社・日御碕神社への参詣御供宿の権利を、彦兵衛尉の子で七郎大夫の孫である米藤丸に、永代譲与する旨を伝えた。七郎大夫に嫡子がいないための措置であった。
出雲国内の商人間紛争
永禄十二年(1569)閏五月、木次市庭中から彦兵衛尉に書状が出された。内容は杵築と木次の商人間の紛争*1についてのもので、今後は相互に話し合うことが重要だとしている。また杵築商人が購入した鉄を、かね馬に積んで輸送する際に積み残された分については、木次市庭中の者に駄賃を与えて運送させることも肝要だと伝えている。
上記の問題と並行して、平田と木次の間でも紛争が起きており、彦兵衛尉らが調停にあたっていた。六月、彦兵衛尉の二度目の問合せに対し、平田目代らが回答を行っている。
これによれば、平田商人が木次に出向いて商売を行ったという木次側の言い分は、「偽説」であると主張。一方で木次商人が、平田商人の商業活動圏である小津(現在の出雲市小津町)・鵜峠(現在の出雲市大社町)にまで来訪して商売を行っていることこそが問題であるとし、木次の不当行為に対して厳格な処置をとるよう嘆願している。
彦兵衛尉らは両者の調停にあたり、木次商人の言い分も尋ねて、平田目代らに取り次いでいたとみられる。両当事者の言い分を聴取しながら、調停を進めていたことがうかがえる。
尼子氏再興
永禄十二年(1569)六月に尼子勝久らが尼子再興を目指して出雲に侵入。以後、出雲国内を席巻し、杵築もその支配下に入った。十一月三日、北島・千家の両国造は、坪内彦兵衛尉と坪内源次兵衛尉に対し、室役を年6貫文とし、新掌祭までに納付することを命じている。これについての尼子氏奉行人・山中幸盛からの奉書も渡付している。
この翌日となる十一月四日、山中幸盛ら尼子氏奉行人によって、坪内孫二郎(彦兵衛尉の兄弟)に「杵築商人相物小物諸役」が申し付けられた。「晴久様御判形之旨」とあるので、毛利元就が彦兵衛尉に安堵した「杵築相物親方職」は、再び孫二郎に戻ったことになる。
御師としての活動
兵衛尉は、備後北部の領主とみられる福永重久*2と師檀関係にあった。重久は使者に御供米を託して彦兵衛尉に「武運長久之御懇祈」を依頼し、また自身も年内に参詣するつもりであることを伝えている。
一方で、重久が彦兵衛尉の来訪を待ち望んでいる旨の書状も残されている。御供米を準備して待っていたのに、なぜ来てくれないのか、何か支障があったのか、必ず来て下さい、と若干なじる調子の文言となっている。
参考文献
- 岸田裕之 「大名領国下における杵築相物親方坪内氏の性格と動向」(『大名領国の経済構造』) 岩波書店 2001