屋久島の北東岸 、宮之浦川河口部の港町。戦国期の屋久島をめぐる種子嶋氏と禰寝氏の紛争では、宮之浦周辺に楠川城や城ヶ平などの城塞が築かれた。その他の屋久島の港としては、北部の一湊、北西部の永田、東部の安房などがあったとみられる。
古代の屋久島
屋久島は日本では、7世紀頃から「掖玖」や「夜句」などと呼ばれて知られるようになる。奈良期には、遣唐使船の南島路の寄港地となった。天平勝宝五年(735)には鑑真や吉備真備の乗船も寄港している。
また平家の落人伝説も存在する。建仁四年(1204)、平清房、盛久らが硫黄島から屋久島に渡ってきたとされる。
戦国期の屋久島をめぐる抗争
応永十五年(1408)、種子島の領主・種子嶋清時が、大隈守護・島津元久から屋久島、永良部島与えられたことにより、屋久島に種子嶋家氏の支配が及ぶ。戦国期には屋久島の支配をめぐってこの種子嶋氏と大隈半島の有力国人・禰寝氏との間で合戦が繰り返される。
天文十一年(1542)三月、種子嶋惠時、直時(時尭)父子が「儀絶」状態となったところに禰寝氏が介入し、これにさらに島津氏が介入した。島津氏の家臣・新納康久は兵を率いて坊津を出船し屋久島に上陸し、直時に引見している(『貴久公記』)。
翌天文十二年、禰寝氏が種子島に侵攻する。これにより種子嶋惠時は屋久島に落ち延び、直時は禰寝氏の要求で屋久島を割譲させられてしまう(「種子嶋家譜」)。
明けて天文十三年正月、種子嶋氏は反撃に転じ、肥後時典率いる軍勢が宮之浦の東の楠河に上陸し、宮之浦の禰寝勢を殲滅した。 屋久島をめぐる両氏の紛争は、その後も禰寝勢が屋久島の一湊に侵攻するなど、結局、禰寝氏が島津氏に臣従する天正元年(1573)頃まで続いている(「種子嶋家譜」)。
琉球方面への寄港地
屋久島をめぐる激しい争奪戦の背景には、同島の戦略的な重要性があった。先述のとおり、屋久島は遣唐使船の寄港地であったように、琉球・中国方面への航路の要衝だった。
弘治二年(1556)に日本に来航した鄭瞬功の著書「日本一鑑」桴海図経巻之一にも、九州諸港の名前として「硫黄島」や「種島(種子島)」、「棒津(坊津)」とともに「屋久島」が挙げられている。戦国期においても、航路における重要性は失われていなかったと思われる。
屋久杉の輸出
天正十年(1582)五月、島津氏は種子嶋久時に対し、材木を買いに来る船「木買舟」の着津と、他国へ木を売りに行く船「木売舟」を禁じている。逆にいえば、天正十年以前は、屋久島や種子島の「木売舟」、あるいは九州各地から来航した「木買舟」によって屋久島の港から材木が輸出され、九州各地に陸揚げされていた。種子嶋氏を従属下においた島津氏は、この屋久島の重要商品を自らの管理化に置こうとしたのである。
文禄四年(1595)六月、島津以久が豊臣秀吉から直接、種子島、永良部島、屋久島を宛がわれた(「豊臣秀吉朱印方知行目録」)。屋久島は島津氏の直接支配下に置かれることになった。
参考文献
- 山下真一「中近世移行期の種子島氏-島津氏の権力編成との関連で-」(『日本歴史』694 2006)
- 『日本城郭大系 巻十八 福岡・熊本・鹿児島』 1979