伊予国下島(大崎下島)東岸の港町。現在の広島県呉市豊町大長。室町期、竹原小早川氏出身で沼田小早川氏に属した小早川徳平家*1の本拠地となった。
小早川徳平家の下島進出
室町前期、大条を含む大崎下島は三島(大三島)の大山積神社社務職などを管掌した善氏一族の所領だった。 ところが応永二十七年(1420)八月、沙弥善麻*2は小早川徳平(竹原小早川氏当主、義春の次男)を養子として「伊予国三島領七島のうち下島」を譲ろうとした(「沙弥善麻譲状写」)。
さらに二年後の応永二十九年(1423)四月、沙弥善麻は養子徳鶴に対して「下島」のうちの「久比浦」、「大条浦」、「興友浦」を譲り与えている。徳平への譲渡は何らかの事情で流れた為、徳平の子の徳鶴(後の円春)*3を養子として三ヶ浦を譲ったとみられる。
大条浦をめぐる土倉氏の執着
小早川円春が文安三年(1446)六月日付で作成した置文写によれば、円春が大条浦等を譲り受けて間もなく「三島」(大山積神社)と合戦となり、土倉氏をはじめ小泉氏、浦氏、生口氏ら沼田小早川氏の有力庶家が援軍として戦った。このとき土倉氏は合力の条件として大条浦の半分の割譲を要求。円春は従わざるを得なかった。
その後、二十年間ほど土倉氏の知行が続いたが、この間円春は土倉氏に対し大条浦半分の返還をたびたび申し出た。円春が出家する際の返還請求でようやく妥結にいたり、大条浦の四分の一は返すが残りの四分の一は「大崎」(大崎上島)で代所を与えることにしたいという土倉氏の返答を得た。
円春は嫡子煕位に対して、この大条浦の四分の一と代所を次男の彦次郎に与えること、さらに代所が不足するようなら、いつでも大条を返還してもらって彦次郎に与えるよう希望を書き送っている。
この大条をめぐる経緯から、小早川円春、土倉氏ともに大条を重要視していたことがうかがえる。
小早川徳平家の本拠
沙弥善麻から譲られた「下島」の三ヶ浦のうち、小早川徳平家は大条に本拠をおいたとみられる。*4
宇津神社に残された棟札によれば、永享十二年(1440)六月、小早川円春は大願主として「七郎大明神」(宇津神社)の社殿を造立。「大条の神人」*5や「御百姓」らも結縁した旨がみえる。大条を本拠とした小早川徳平家の人々はこの「七郎大明神」を氏神として崇めていたものと推測されている。
文政二年(1819)の「大長村、御手洗町国郡志御編集下調べ書出し帳」によると、大長村に「御土居」として「殿屋敷跡」のことが記されている。その城主の姓名は「確かならず」とあるが、下手には「御船入」という古池が残っていたという。小早川徳平家の屋敷とも考えられる。
瀬戸内海航路における大条
天正十四年(1586)頃、豊臣政権は諸国での「海上賊船之儀」を停止すべき旨を発令。そんな中、天正十六年(1588)七月、豊臣秀吉は「備後伊与(伊予)両国之間伊津喜嶋にて盗船仕之族在之由」を聞き、「曲事」と激怒している(「小早川文書」502号)。「伊津喜嶋」と」は現在の広島県呉市豊浜町斎嶋。「下島」から南に約八キロメートルのところに位置する。
古代より瀬戸内海を航行する船は山陽道の沿岸を進む航路「地乗りコース」を採ることが多かった。しかし斎島における海賊の存在は、瀬戸内海の中央部を抜ける最短のコースである「沖乗りコース」を採る船も少なからず存在したことをうかがわせる。実際、西園寺宣久が天正四年(1576)の伊勢参詣のおり、伊予国宇和郡から船で「大崎」(大崎上島の港?)に着き、鞆に向けて出発している(「伊勢参宮海陸之記」)。
先述のように土倉氏は合力の条件として大条浦半分を要求し、その後もなかなか小早川徳平家に返還しなかった。その理由として、大条が「沖乗りコース」を航行する船の寄港地となっていた可能性が指摘されている。大条には十七世紀のはじめには、「惣津」「船津」「津倉」など港にちなむ小字の名前があったことが確認されている。
港町御手洗の建設
慶長年間から、大条は「大長」と記すようになった。江戸期、「沖乗りコース」が主流となったが、大長は大型船の寄港には不向きであったという。北前船は大長の東南の御手洗沖に停泊し、大長からの補給を受けていたが、17世紀中頃過ぎには御手洗に人が住み着き始めた。
寛文六年(1666)、耕地を屋敷地とすることが藩から許され、新たな港町・御手洗が誕生した。御手洗は江戸期を通じて瀬戸内海の風待ち、潮待ちの港として大いに繁栄することになる。
関連人物
参考文献
- 豊町教育委員会・編 「豊町史本文編」 2000
*1:小早川徳平は応永十一年(1411)父義春から沼田庄や大崎西庄の所領を譲り受けた。これは義春が妻(土倉氏出身とみられる)から譲られた所領であり、これを継承した徳平は竹原小早川氏から離れ、土倉氏の庶家と位置づけられたと考えられるという。
*2:善氏の一族。別の史料で自らのことを「善式部小輔入道善麻」と記している。
*3:「久比浦」「大条浦」「興友浦」の三ヶ浦はこの後小早川徳平の子孫に伝えられることになったと考えられることから、徳鶴は小早川徳平の息子であった可能性が大きい。
*4:小早川円春は文安三年(1446)の置文写において、「三島」との合戦の際に「久比」に城を構えたと述べていることから、久比浦にはもともと小早川徳平家の城塞が無い、つまり本拠地ではなかったことがうかがええる。興友浦は浦の後背地が狭いため本拠地の可能性は低いとみられる。