戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

小早川 円春 こばやかわ えんしゅん

 小早川徳平の子。小早川煕位、彦次郎の父。官途名は土佐守。沙弥善麻から大条浦など「下島」(大崎下島)を譲り受け、宇津神社の社殿を再興するなど同島での支配を固めた。

大崎下島への進出

 応永二十九年(1422)四月、「下島」の領主とみられる沙弥善麻は「徳鶴」を養子として「下島」の内の「久比浦」、「大条浦」、「興友浦」を譲る旨の譲状を作成した(「小早川家証文」577号)。この徳鶴が若き日の円春とみられる*1

大三島との合戦と大条浦割譲

 円春が文安三年(1446)六月に作成した置文写によれば、20余年前、つまり円春が下島の所領を譲り受けて間もなくの時期に、「三島」(大山積神社)との間で合戦が起こった(「小早川家証文」461号)。 

 この時身内の土倉氏は、援軍の条件として所領の割譲を要求。当時の円春は「無力」であったため、了承せざるを得なかった。

 しかし土倉氏の働きは芳しくなかったらしい。「三島」側が想定よりも早く体制を整えて攻め込んできたので、急ぎの来援を要請したにも関わらず、「長袴之式」(非武装の状態?)でやって来たという。また久比浦に城を構築した際、5日間在津したが、「其外ハほねをりのかとも」無かったと円春は述べている。

 一方でこの合戦には、土倉氏と同じ沼田小早川氏の庶家である小泉氏、浦氏、生口氏も援軍として参戦。「大勢」で合力し、円春も「此御恩ともわすれ被申ましく候」と感謝している。

 円春は土倉氏の働きに思うところはあったが、結局当初の約束通り所領の内から大条浦の半分を同氏に譲ることになった。置文の最後には、土倉氏への不審感がぶちまけられている。

余所様さへ御扶持候処、はくら殿所領配分候ハすハ、合力あるましき儀ハ如何、不心得候

 (小泉氏、浦氏、生口氏といった)他家の方さえ助けてくれているのに、身内である土倉氏は所領を割譲しなければ援軍を出さないというのは、いったいどういうことだ。理解できない。

大条浦返還交渉

 土倉氏に大条浦半分の知行が渡った後、円春は所領の返還要求を続けた。20余年が経過し、円春が出家にあたり所領の一部を子供に残したいと申請したところ、ようやく大条の4分の1を返還し、残る4分の1は「大崎」(大崎上島)で代所を与えることにしたいという回答を得た。

 円春は嫡子煕位への置文の中で、この大条4分の1と、大崎の代所を次男の彦次郎に譲るよう頼んでいる。また、もし代所が不足していたら、いつでも大条の残りを請け取り、彦次郎に与えてほしい旨を伝えている。

七郎王子大明神の社殿建立

 大条の宇津神社に残る棟札によれば、永享十二年(1440)六月初めごろ、当時「七郎王子大明神」と呼ばれた宇津神社の社殿が造立された。大願主は「沙弥円春」(小早川円春)で、「大条之神人」や「御百姓」が結縁した旨が記されている。円春ら「下島」の小早川氏が「七郎王子大明神」を氏神として崇めていたことが推測される。

参考文献

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円春が執念の返還交渉を続けた大条浦(現在の大長)。

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大長の八王子社。円春の当時、七郎王子大明神はこの地に鎮座していたという。

*1:「下島」の所領は円春の子煕位にも受け継がれていること、円春の父徳平が既に成人していたことなどから推測できる。