戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

善 善麻 ぜん ぜんま

 室町期の「下嶋」(大崎下島)の領主。文書には「沙弥善麻」や「善式部少輔入道善麻」と自署している。大山積神社の社務職を管掌した善氏の一族とみられる。

小早川徳平への下嶋譲渡計画

 応永二十七年(1420)八月日付けの「沙弥善麻譲状写」によれば、善麻は小早川徳平を養子として、「伊予国三嶋領七嶋之内下嶋」を譲ることを考えていた。徳平を養子とする理由については、徳平の「女性」(姉?)と関係がある(妻にしている?)からとしている。

 また、この「下嶋」の所領は、「善左近蔵人入道」から善麻が譲り受けたものであったことも記されている。「下嶋」は、善氏一族に継承されてきた所領だったことがうかがえる。

小早川円春への譲状

 この2年後の応永二十九年(1422)四月、善麻は養子の徳鶴に対して「下島」のうちの「久比浦」、「大条浦」、「興友浦」を譲る旨の譲状を、女性某と連署で作成している。小早川徳平は、応永二十七年段階で成人していたこと、譲状の所領は徳平の子孫に継承されていることから、徳鶴とは徳平の子、円春と推定される。

 同じく応永二十九年四月、善麻は「いえさねとの」宛ての内状の中で、「下嶋」の譲状を渡すので「社役」以下を間違いなく勤めてほしいと述べている。譲状の作成には、大山積神社の社役を領主たちに勤めさせる見返りとしての目的もあったものとみられる。

紛争の火種

 上記のように善麻は、当初は小早川徳平に譲ろうとした所領を、2年後に改めて徳鶴に譲っている。このことから、この所領譲渡が善麻の思い通りにいっていない状況がうかがえる。元来善氏に受け継がれていた「下島」の所領を他家に譲ることについては、一族内で強い異論があった可能性がある。

 小早川円春が文安三年(1446)六月付けで作成した置文によれば、20余年前に「三島」(大山積神社)との間で「弓矢」(合戦)に及んだという。円春が善麻から所領を譲られてまもなく、大山積神社の善氏一族との間で合戦が起こったことが分かる。

参考文献