戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

小早川 徳平 こばやかわ のりひら

 竹原小早川氏の惣領、小早川義春の次男。仮名は弥二郎。小早川仲義の弟。小早川円春の父。父から大崎上島の大崎西庄の所領などを譲られ、大崎下島進出のきっかけを作った。

父義春からの所領譲渡

 応永十八年(1411)四月、父義春から沼田庄土倉(現三原市大和町徳良)の家実名や同庄田浦(現三原市田野浦)の行貞名、正時名、それに大崎西庄(現豊田郡大崎上島町原田・大串辺り)の兼行名上下を譲られた。また、この時に大崎島の実親名や「猟浜」(現豊田郡大崎上島町木江大字沖浦字狩浜か)も、同じく徳平に譲渡されたことが知られる(「小早川家証文」441号)。

 徳平に譲られた所領は、義春が竹原小早川氏惣領となる仲義に譲ることなく、自分のもとに留めていたものだった*1。その所領は、彼が妻から譲られたものであり、その所領に関わる「役」は妻の実家の惣領に負担すべきものであったと推測されている。

土倉氏との関係

 義春の妻の実家とは沼田小早川氏の最有力庶家の一つ、土倉氏とみられる。その所領を譲られた徳平は竹原小早川氏から離れ、土倉氏の庶家として位置づけられることになったと考えられる*2

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大崎下島進出への足掛かり

 応永二十七年(1420)八月、沙弥善麻は小早川徳平の「女性」(姉)が自分と関係があるからということで、彼を養子として、「伊予国三嶋領七嶋之内」の「下嶋」(現大崎下島)を譲ろうとしている。この目論見はいったんは流れたものの、2年後の応永二十九年(1422)、善麻は徳鶴(小早川円春。徳平の子)を養子として、「下島」の内の久比浦、大条浦、興友浦を譲与している。

 これにより、小早川徳平にはじまる徳平家は「下島」の大条を本拠地として独自の勢力を形成していく。

参考文献

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大崎下島の御手洗から大崎上島方面を眺める。手前の三つの島の向こうが大崎上島

*1:徳平の兄仲義は応永五年(1398)に嫡子弘景に所領を譲っており(「小早川家文書」77号)、これ以前に義春が嫡子仲義に所領を譲っていたことことが分かる。

*2:文安三年(1446)の小早川円春の置文写によれば、「三島」と合戦となった円春に沼田小早川氏の庶家である小泉氏、浦氏、生口氏、土倉氏が援軍に駆けつけている。この四氏の内、小泉氏、浦氏、生口氏について「余所様」と記しており、土倉氏だけは身内と考えていた節がある。