戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

高崎 六郎次郎 たかさき ろくろうじろう

 沼田小早川氏の庶子家である高崎氏の当主か。応仁文明の乱では、東軍方の惣領家に従わず、西軍の周防大内氏の援軍とともに高崎城に立て篭もった。

高崎氏の成立

 高崎浦は沼田新荘に含まれ、鎌倉期から同荘を支配する椋梨子氏の所領だった。永享二年(1430)十二月の小早川三河入道沙弥道就の知行注進状にも、沼田新庄椋梨村、同庄内和木村とともに同庄内高崎浦がみえる(「小早川家文書」)。

 しかしこの後、永享五年(1433)から嘉吉二年(1441)頃にかけて、沼田小早川家中では持平、熈平兄弟による家督争いが勃発。椋梨子氏を盟主とする沼田新荘の小早川庶子家でも大草氏が没落するなど、大きな混乱があった。

kuregure.hatenablog.com

 この期間に高崎浦は椋梨子氏を離れ、新たな小早川庶子家である高崎氏の所領となったとみられる。なお高崎氏の所領規模は一族内で最も少ない30貫文であった*1

七端帆船の供出

 寛正二年(1461)四月、幕府は周防大内氏の安芸国における重要拠点である安芸東西条を取り上げ、武田信賢に渡すことを決定。細川勝元は、小早川熈平と宮中務丞を打渡使節に任じた(「小早川家文書」)。

 十月、小早川熈平は大内氏の本拠である周防山口に下向するため、家中に役銭を賦課*2。この時、高崎氏のみが銭ではなく、七端帆の船一艘を仕立てて提供している(「小早川家文書」)。

 これより以前、享徳二年(1453)には第八号遣明船の派遣に関わった楠葉西忍が高崎浦に下向。造船から乗組員(船頭、梶取など)の手配まで遣明船派遣の準備を整えており(「大乗院寺社雑事記」)、高崎浦の造船が盛んであったことが知られる。

kuregure.hatenablog.com

惣領家との敵対

 応仁元年(1467)五月、京都で応仁の乱が勃発すると、沼田小早川氏は細川勝元率いる東軍方に立つ。同氏は京都だけでなく安芸・備後においても、西軍方の諸氏と合戦を繰り広げた。一方で高崎城を守る高崎六郎次郎は、西軍方についたらしい。

 これに対し東軍方では、文明元年(1469)四月に安芸・備後両国の守護である山名是豊の軍勢が備後で山内氏ら西軍方を破り(「山内首藤家文書」)、安芸国に入って高崎城に迫った。六月十七日、京都在陣中の小早川熈平は、国元の国貞重家と真田出雲守に宛て、山名是豊の援軍を喜ぶとともに、高崎城も必ず「落居」するだろうと見通しを伝えている(『萩藩閥閲録 遺漏』巻二之二)。

 この時、高崎城には高崎六郎次郎とともに西軍方の大内氏重臣・仁保弘有*3の被官ら大内勢が援軍として篭っていた。七月、城を包囲する沼田小早川勢に毛利豊元の援軍が加わり、高崎城は陥落。大内被官・市来藤左衛門尉の奮戦もあって、六郎次郎らは無事だったらしい(「毛利家文書」「山口県文書館所蔵文書」)。

その後の高崎氏

 高崎城陥落により、沼田小早川庶子家としての高崎氏は没落したとみられる。高崎浦は沼田小早川惣領家の所領となり、文明十二年(1480)十月には惣領家被官の真田民部丞が「高崎御代官」として支配にあたっていた(「小早川家文書」)。延徳三年(1491)八月、沼田小早川扶平が父敬平から譲られた所領の内にも高崎浦がみえる(「小早川家文書」)。

 ただ高崎氏は惣領家被官として存続していた。天文二十三年(1554)九月二十九日、高崎五郎武忠が安芸国能美島の合戦で戦功を挙げ、小早川隆景から感状を得ている(「京都大学文学部所蔵文書」)。

kuregure.hatenablog.com

参考文献

高崎六郎次郎が篭った高崎城跡。既に城の遺構はほとんどない

現在の高崎舟入。中世の高崎浦の姿からは大きく変わっている

薬師寺境内にある室町中期以降とみられる五輪塔や宝篋印塔等の石塔群。高崎氏に関わるものもあるのかもしれない

*1:遅くとも宝徳三年(1451)までに作成された「沼田小早川氏一族知行分注文」では、高崎氏は一族内で最も少ない30貫文の所領規模であったことがみえる(「小早川家文書」)。

*2:乃美氏が25貫文と最も多く、次いで20貫文の梨子羽、生口、土倉、椋梨子、小田。15貫文が浦、小泉、船木、秋光。

*3:大内氏安芸国支配の中心である東西条地域の諸豪族・諸給人を率いる立場にあった。