戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

小早川 煕位 こばやかわ ひろただ

 小早川円春の子。官途名は治部少輔。弟に彦次郎がいる。

父円春の置文

 文安三年(1446)六月、父円春が「治部殿」(煕位)宛の置文を作成しており、煕位が円春から家督を継いだのもこの頃とみられる。

 円春は置文の中で、土倉氏が知行する「下島」の大条浦半分について4分の1が返還されること、残り4分の1が「大崎」(大崎上島)で代所を得ることになった経緯を説明。土倉氏から得るこれら所領を次男(煕位の弟)彦次郎に与え、末の子の一人と思うよう煕位に頼んでいる。

煕位の所領

 宝徳三年(1451)七月、煕位は息子の鶴市に宛てて二通の譲状を作成している。まず一通目は「伊予国三島七島之内下島之事」として、「久比之浦」、「大条浦」、「興友浦」、「見賀多之島」*1、「豊島大浜ニアル入地」*2の5ヵ所を挙げ、「重代之私領也」と記している。応永二十九年(1422)に善麻が養子徳鶴に譲ったのは久比浦、大条浦、興友浦の3か所だったから、煕位の代には所領が周辺に広がっていることが分かる。

 もう一通の譲状は沼田庄内土倉村家実名や大崎島の「猟浜」など7ヵ所を挙げ、「彼所領」は「代々知行のもの也」「子々孫々相違有るべからず」と記している。なお、この7ヵ所の所領は応永十八年(1411)四月に小早川徳平が義春から譲られたものと全く同じ構成になっている。

異なる所領の性格

 1通目の譲状で挙げられた「下島」での所領は、「重代之私領」とあることから、上級の権力者に対して何の「役」も負担する必要がなかったことがうかがえる。それに対して沼田庄内土倉村家実名以下の所領については「代々の知行」という言葉から、惣領土倉氏などに所領高に応じた「役」を負わなければならなかったとみられる。

譲状作成時期の煕位

 2通の譲状の端裏には「先年出陣之時、したため候状にて候」、「先年したため置候」とある。これら譲状は作成された宝徳三年(1451)七月ではなく、その後しばらくして、改めて渡されたものであったことが分かる。

 「先年出陣之時、したため候状にて候」とあるので、宝徳三年七月当時、煕位は出陣中だった。そこで自分が討ち死にした後に所領争い等が起こらぬように、譲状を作成したものと思われる。

 この時期、伊予国守護職をめぐり河野教通方(幕府方)と河野通春方(反幕府方)が合戦している。煕位はこの両者いずれかの陣営に合力するために出陣していたものと考えられる。

参考文献

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久比港から眺めた三角島。煕位の譲状にみえる「見賀多之島」。

*1:呉市豊町・豊浜町三角島

*2:「下島」大浜における豊島島民による入植地。