戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

生口 守平 いくち もりひら

 小早川生口氏の当主。官途名は刑部丞あるいは刑部少輔。公実庶子。向上寺三重塔の建立に関わった。

甥・小法師丸の後見人

 応永三十五年(1428)六月、生口公実は、嫡孫・小法師丸への譲状を作成した(「小早川家文書」)。この中で、小法師丸に譲渡する所領とは別に、守平に譲る「庶子分」を定めている。また小法師丸の成人までは、守平が生口島の沙汰を行うこととなった。

向上寺三重塔の建立

 永享四年(1432)、生口島の向上寺に三重塔が建立され、本尊釈迦如来が安置された。瀬戸田浦の有力者とみられる信元と信昌が造塔を発願した(「仏通寺文書」『宗綱語録』)。守平は「当寺外護大檀越平氏生口刑部少輔守平」として、当時の文書に名がみえる(『宗綱語録』)。

生口島地頭職

 向上寺三重塔の建立の翌年、永享五年(1433)八月六日、守平は将軍足利義教から安芸国生口島地頭職に正式に任じられた(「小早川家文書」)。生口氏による生口島の実効支配を、承認したものと考えられる。

小早川家中の有力氏族

  嘉吉元年(1441)三月、幕府は沼田小早川惣領家の相続争いに介入し、沼田小早川熈平を退けて竹原小早川盛景を跡目とする。幕府はこの件を、小早川氏一族16名に通達。この時のリストには、「浦参河守殿」に次いで「生口刑部少輔殿」の名が記されている(「小早川家文書」)。守平が、小早川家中でも高い序列にあったことがうかがえる。

 ただ、この幕府の命令は効力が無かった。現地では、小早川熈平が継続して惣領の地位にあった。

 文安元年(1444)十二月、生口氏が外護する向上寺が、幕府管領畠山持国の奉書により将軍祈願所*1に定められている(「仏通寺文書」)。守平が幕府から実力を認められていたことがうかがえる。

沼田小早川庶子家の結束

  宝徳三年(1451)九月、沼田小早川庶子家が一揆契約をして相互支援を約束し、惣領家に対しても団結して当たることを取り決めた(「小早川家文書」)。生口守平も、傘連判*2に署名している。

 当時、沼田小早川惣領家は、庶子家の家中から人材の引き抜きを行っていたらしい。これに対抗するために、結束が必要となっていた。

 また寛正三年(1462)五月、弓削島に侵入した生口島の地下人や岩城島の公文らが、村上氏に撃退されている(「東寺百合文書」)。守平ら生口氏が、地下人を利用して近隣の島々に勢力の拡大を図っていたのかもしれない。

細川勝元からの詰問

 年未詳だが、幕府の重鎮・細川勝元が「小早河因幡入道」に宛てた書状が「小早川家文書」に残されている。「小早河因幡入道」の子・弥四郎が、大内政弘の被官となったという情報に接した勝元が、事実であれば自分の本意に背く行為だと、強く非難する内容になっている。一方で、虚説であるなら、詳しい事情を聞きたいと求めている。勝元にとっても、にわかに信じられない事態であったらしい。

 年代は、大内政弘家督を継いだ寛正六年(1465)を下限とすると推定される。「小早河因幡入道」は、守平の父・生口公実*3である可能性もあるが、父の官途名を継承した守平とする方が妥当と思われる。

参考文献

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守平が「大檀越」となって造営された向上寺三重塔。

*1:当時の将軍は足利義政

*2:守平のほか、乃良景久、土倉茂秀、舟木保平、小泉之平、梨子羽熈景、椋梨子利平、小田景信、上山賢高、浦氏安、乃美真平、清武則直、秋光景茂

*3:応永二十九年(1422)十二月、「東大寺文書」に「小早河生口因幡入道公実」としてみえる。