伊予国下島(大崎下島)北岸の港町。現在の広島県呉市豊町久比。室町期、大三島の善善麻から小早川円春に譲れらた三ヶ浦の一つ。大三島との合戦が起こった際、小早川円春方が城を築いて守りを固めたという。
小早川円春の支配
応永二十九年(1422)四月、善式部入道善麻は女性某と連署で、小早川徳平の子の徳鶴を養子として、「下島」(大崎下島)の内の「久比浦」、「大条浦」、「興友浦」を譲与する旨を記した文書を作成している(「小早川家文書」)。なお善善麻は大山積神社の社務職を管掌した善氏の一族であったとみられ、応永二十七(1420)八月の文書では、下島の所領は善左近蔵人入道から譲られたものだと述べている(「小早川家文書」)。
しかし徳鶴が所領を譲られて間も無く、下島に大三島の勢力が侵攻してきたらしい。徳鶴と同一人物と思しき小早川円春が文安三年(1446)六月日付で書いた置文には、この二十数年前に「三島」(大三島)と「弓矢」(合戦)に及んだことが記されている。この時、円春は久比に城を築き、その際には援軍の「はくら殿」(沼田小早川氏庶子家の土倉氏)が五日在津したという*1。
円春の隠居後は子の小早川煕位が下島の所領を継承した。宝徳三年(1451)七月、煕位は息子の鶴市に対して譲状を作成。「伊予国三島七島之内下島之事」として、「久比之浦」、「大条浦」、「興友浦」、「見賀多之島」*2、「豊島大浜ニアル入地」*3の5ヵ所を挙げ、「重代之私領也」と記している。
谷奥の埋銭
久比の谷の奥からは、二度にわたって甕に入った多量の銭が発見されたことが記録にみえる。最初に発見されたのは江戸末期頃であり、「多喜蔵」という人が「ミヤゲ」(見上)の地すべりあとの地中から堀り出したという。一個の瓶の中に「小銭」がいっぱい詰まっていて、「青緑色」をしており、「ツゞレ付キタル」ものが多かったと伝えられる。瓶の中の銭は、その色から銅銭であったと考えられ、また「緡銭」(さしぜに)の状態で詰められていたものと推測されている。
次に、万徳初太郎が大正二年(1913)四月に「二谷」を開墾していたとき発見したもので、掘り出した土瓶のなかには小銭が9527枚と破損したものが入っていたという。当時の記録からこの1万枚近くの銭貨の種類がほぼ明らかとなっており、唐朝の開元通宝や北宋朝の淳化通宝・至道元宝・咸平元宝・大平元宝・天聖元宝、南宋朝の淳熙元宝、明朝の永楽通宝・宣徳通宝など、いずれも中国からの渡来銭と考えられている。
これらの貨幣がそれぞれ何枚づつ出土したかは不明であるが、「宋銭」と呼ばれている北宋朝の貨幣の種類が多いことが特徴として挙げられる。最新の銭が明朝で1426年(応永三十三年)に初めて鋳造された「宣徳通宝」であることから、1万枚近くの銭貨が瓶に入れられ「二谷」に埋納されたのはこれ以降ということになる。室町期、久比浦など下島にも多量の銭が流通していたことがうかがえる。
なお「ミヤゲ」と「二谷」は、江戸末期から大正期にかけて開墾されたところと考えられており、このような山中に多量の渡来銭が埋納された理由は分かっていない。ただ、日本各地では埋納銭が人里離れた山中だけでなく、武士の居宅を始めとする建物跡や墓地など様々な場所でみつかっている。このことから、新たに土地を占有し切り開くときに、その土地の地主神に許しを乞うための捧げ物であるという説も提唱されている。この説に沿って、久比の山中に埋められた渡来銭は、久比浦の開発にあたって地主神に捧げた「志納銭」であった可能性が指摘されている。