戦国日本の津々浦々 ライト版

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国内城 こくないじょう

 高句麗の王都。鴨緑江と通溝江の合流地点の北岸に位置し、平地城(国内城)と山城(丸都山城)がセットとなった構造をしている。中国の三国時代、魏の幽州刺史毌丘倹の侵攻を受けた。5世紀前半、長寿王の時代に南の平壌へと遷都された。

卒本からの遷都

 紀元前108年からその翌年にかけて、前漢武帝により楽浪、真番、臨屯、および玄菟の4郡が設置された。そのうち玄菟郡の属県の一つとして高句麗県の名がみえる(『漢書』巻28下地理志下)。県自体が先住種族である高句麗に対する支配を大きな目的として置かれたと考えられているが、その後の玄菟郡後漢時代の2世紀初頭までに、しだいに西方に移動している。これは強まった高句麗の力に抗しきれなかったためともされる。

 『後漢書東夷伝高句驪条には「建武八年、高句驪遣使朝貢、光武復其王号」とあり、建武八年(紀元32年)に朝貢してきた高句麗に対して光武帝が王号を復活させたことが分かる。このことから、すでに高句麗の君長は前漢の時代から高句麗王という王号を名乗ることを認められていた可能性があるという。

 高句麗がはじめて都としたのが卒本だった。卒本は現在の中国遼寧省桓仁県にあったと考えられている。

 広開土王碑文には、始祖である鄒牟王が沸流谷の「忽本」の西の山上に城を築いて都にした、と見える。この「忽本」が卒本のことと考えらており、その西の山上に築かれたという城が、桓仁の五女山城と推定されている*1。この山城と平地城をセットとする構成は、この後も継承されていくこととなり、高句麗の伝統的な都のスタイルと考えられている。

 『三国志東夷伝高句麗条によると、2世紀末から3世紀初め頃、高句麗王の伯固が死去。長子の抜奇は「不肖」ということで、弟の伊夷模が王に擁立された。抜奇はこれを怨んで有力部族の一つである涓奴部とともに、当時遼東を支配していた公孫康*2に降った。

 伊夷模は一時は劣勢に立たされたこともあったが、高句麗条にはあらためて「新国」を作ったとある。これが中国吉林省集安市にある国内城であり、伊夷模はこの地を新たな王都としたとみられる。公孫康は204年に父の公孫度の跡を継いでいるので、国内城遷都はそれ以後となる。一方で抜奇も自分の子を沸流水すなわち卒本に留まらせており、この時期、高句麗は二つに分裂したことになる。

呉との外交

 229年四月、呉の孫権が皇帝位につく。同年五月、呉は遼東の公孫淵公孫康の子)に使者を派遣。232年にも孫権は将軍周賀と校尉裴潜を遼東に遣わし、公孫淵はこれに応えて校尉宿舒と閬中令孫綜を呉に派遣して藩臣となることを願い出たという。翌233年三月、孫権公孫淵を燕王に封じることとし、太常張彌、執金吾許晏、将軍賀逹らが宿舒と孫綜をともなって遼東に赴いた。

 しかし公孫淵は、ここにおいて張彌らを斬り捨ててその首を魏に送り届けるという挙に出た。『三国志』巻47呉主伝嘉禾二年是歳条の注に引かれた『呉書』には、この事件を契機とする呉と高句麗接触およびその顛末が記されている。

 すなわち、呉の使節は400人ばかりだったが、公孫淵は張彌・許晏らを始末するにあたり、使節の人員を遼東郡の諸県に分置。高句麗と接する玄菟郡には、中使の秦旦、張羣、杜徳、黄疆らと吏員や兵士60人が置かれた。そこで秦旦らは城壁を越えて逃走をはかる。途中で病に罹った張羣および杜徳と別れるも、秦旦と黄疆は高句麗に達することができた。

 当時の高句麗王は伊夷模の子の位宮だった。秦旦らは位宮に孫権の詔を宣読。位宮らは大いに悦び、詔を受けた。また使臣に命じて張羣と杜徳を迎えに行かせた。その年、位宮は25人の皂衣(高句麗の官名)を使者として秦旦らを送り還すとともに、孫権に対して臣を称し、貂の皮千枚と鶡雞(やまどり)の皮10セットとを献上した。

 一年をおき、孫権は使者謝宏と中書陳恂を高句麗に派遣。位宮に称号を授けて単于とし、加えて衣物や珍宝を下賜しようとした。

 陳恂らは安平口(遼寧省東港市附近か)に到ると、先ず校尉の陳奉を派遣して前もって位宮に謁見させたが、すでに位宮は魏の幽州刺史から呉の使者を処分するよう圧力をかけられていた。位宮は主簿の窄咨と帯固らを安平口に遣わして謝宏と会見させたが、謝宏が高句麗の使者30人余りを捕縛して人質としたため、謝罪して馬数百匹を献上したという*3

 この高句麗と呉の外交交渉から、呉から海路で安平口に至り、高句麗王都の国内城に向かうルートが存在したことがうかがえる。高句麗から呉には、貂や鶡雞(やまどり)の皮、そして馬が献じられているが、呉が公孫淵高句麗との接触を図った背景には、馬の入手という実利面があった可能性が指摘されている。

 その後、呉は236年七月にも高句麗に使者を派遣した。しかし使者の胡衛は斬殺され、その首は幽州に届けられた。

 238年、遼東の公孫淵は魏の宣王司馬懿の総攻撃を受け、滅ぼされた。このとき高句麗王位宮は数千人の軍勢を派遣して司馬懿に加勢している。公孫氏政権には、以前に位宮の伯父抜奇が身を寄せていたということもあり、これが高句麗軍の派遣につながったともいわれる。

魏の侵攻

 遼東の公孫氏政権が滅びたことで、高句麗は魏と境を接することになった。間もなく両者は敵対したらしく、242年に高句麗王位宮は遼東の西安平に侵入した*4

 これに対し魏の幽州刺史毌丘倹は、244年に1万人の軍勢を率いて玄菟郡から高句麗に侵攻*5。佛流水のほとりで位宮率いる2万人の高句麗軍を敗走させ、「丸都」を攻略し、高句麗の「都」を屠ったという(『三国志』巻28毌丘倹伝)。「都」は国内城であり、「丸都」は国内城の西北にあった山城の丸都山城(山城子山城)をさすとみられる。

 魏は翌年の245年にも高句麗への侵攻を行う。位宮は買溝(吉林省琿春市附近)に逃走し、毌丘倹の命令を受けた玄菟太守の王頎がこれを追跡した。王頎の軍勢は高句麗の東の沃沮に侵入して北上し、ついには肅愼(挹婁)の勢力圏の南端にまで達したとされる(『三国志』巻28毌丘倹伝)。

 同年、高句麗の南、朝鮮半島の東部にあった濊に対しても、魏の楽浪太守劉茂と帯方太守弓遵が軍勢を率いて侵攻。渠師の一人とみられる不耐侯が降伏している(『三国志東夷伝濊条)。『三国志東夷伝濊条によれば、濊は後漢末期に高句麗に属したとあるので、劉茂らの濊侵攻は毌丘倹の高句麗征討作戦の一環だったとみられる。

「毌丘倹紀功残碑」

 前述のように肅愼(挹婁)の南端まで達した玄菟太守王頎は、同地(「肅愼氏南界」)と「丸都之山」および「不耐之城」の三か所に功績を記した刻石を遺したという(『三国志』巻28毌丘倹伝)。

 このうち「丸都之山」に建立された石碑が20世紀初頭に現地附近で見つかっており、「毌丘倹紀功碑」と命名されている*6。残存部分は縦38.9×横29.9×厚さ8.4センチメートルで、以下のように刻まれている。

正始三年高句驪反(下缺)
督七牙門討句驪五(下缺)
複遺寇六年五月旋(下缺)
討寇将軍魏烏丸單于□(下缺)
威寇将軍都亭侯□(下缺)
行稗将軍領玄□(下缺)
行稗将軍□(下缺)

 現存しているのは七行だけで、第一行から第三行は、正始三年(242年)から始まる高句麗と魏との戦争が時系列で記されている。第四行からは、第二行にみえる「七牙門」すなわち七名の軍司令官たちの姓名が刻まれていたと推定されている。

 第六行の「行稗将軍領玄」には「菟太守王頎」と続けられていたと考えられており、王頎も七牙門の一人だったことがわかる。同じように、第四行にみえる「討寇将軍魏烏丸單于」は、237年に公孫淵のもとから毌丘倹に降った右北平烏桓単于の寇婁敦だった可能性が指摘されている。

都市の遺構

 魏の侵攻以後も、5世紀の遷都まで、国内城は高句麗の王都だったとみられる。国内城は通溝城とも呼ばれ、鴨緑江と通溝江の合流地点の北岸に位置している。南北約702メートル、東西約730メートルほどの台形に城壁をめぐらした形をしている。

 城壁は北壁と西壁がよく残っている。西南角には角楼跡が残っており、外側に突出させた石積み構造で、残存している高さ約1.3メートルをはかる。また城壁には馬面*7という防御施設が設けられている。

 城内の発掘調査では、4棟の大型建物跡が検出されている。そのうち3棟は「回」字状に壁体の石組み基礎が建物を取り巻いていた。その他にも周辺の調査地点で石組み溝や牆体(垣根)、道路などの遺構も見つかっている。

 国内城の西北には、丸都山城(山城子山城)と呼ばれる山城がある。丸都山を約7000メートルに及んでぐるりと城壁が囲む包谷式であり、平地の国内城に対して緊急時に籠る山城であったと考えられている。城壁には7つの城門が確認され、そのうち一号門址は南城壁の中央あたりで凹状に内側に入ったところに設けられていた。この一号門址が丸都山城で最も重要な門の一つと考えられている。門の左右には排水のための施設も作られていた。

 城内には宮殿や瞭望台、戌卒居住址、蓄水池などが見つかっている。宮殿跡とされている遺構は、方形の宮牆で区画されており、おおよそ南北が95.5メートル、東西が85.6メートルの方形を呈している。西辺の宮牆中央には一号宮門址があり、その北に二号宮門址がある。このうち一号宮門址が正門と考えられているという。

 宮殿址の内部には一号台基から四号台基まで長方形の石積みの基壇があり、その基壇上に礎石建ちの長大な建物が建てられていた。また二号大基の南には、やはり礎石建ちの八角系の建物が二棟並んで建てられていた。

 長屋のような長大な建物が密に立ち並んでいる点に特徴があるとされる。中国風の儀礼空間では、中心となる正殿があり、その前に儀式のための広場あるが、これとはだいぶ異なっている。また宮殿全体は西を正面としており、この点も基本的に南を正面とする中国の宮殿とは異なっている。

 瞭望台は宮殿址の南西に位置し、6.7×4.5メートルの石積みの基壇があり、残存高は約4.5メートルある。いわゆる見張り台と考えられている。瞭望台のすぐ北に礎石群が残っており、兵士の居住建物跡と推定されている。

平壌への遷都

 高句麗は4世紀末から5世紀にかけて在位した広開土王のもとで最盛期を迎える。広開土王の跡を継いだ長寿王は、国内城の近郊に高さ6.3メートルの広開土王碑を建てて父の偉業を後世に残した。

 この長寿王の時代、427年に国内城から平壌城に都が遷された(『三国史記』巻18)。現在のピョンヤン市街地の東北に位置する大城山城とその西南の清岩里土城がこの時の平壌城だったとされる。

関連交易品

参考文献

魏毌丘倹紀功断碑拓本

朝鮮史編修会 編 『朝鮮史 第1編 第3巻』 朝鮮総督府 1935
国立国会図書館デジタルコレクション

国内城と丸都山城趾
グーグルマップの航空写真

*1:もともとは玄菟郡の県城の一つだったと考えられており、それを高句麗が利用したものともされる。

*2:公孫氏は遼東半島の付け根に位置する遼東郡(郡治は襄平県)を拠点にした。公孫氏は度、その子康、弟の恭、康の子淵の四代にわたり遼東太守を自称して、半独立的な勢力を誇った。

*3:謝宏の船は小さかったので、馬80匹だけを載せて呉に帰還した。

*4:三国志東夷伝高句麗条によると、位宮の祖父伯固の時代にも高句麗は遼東に侵犯。新安居郷に侵入した後に西安平を攻め、道上で帯方郡の県令を殺し、楽浪太守の妻子をさらったという。これにより、169年に後漢の玄菟太守耿臨の討伐を受け、降伏して玄菟に属することになったと記されている。

*5:三国志東夷伝夫餘条によれば、これより前に毌丘倹は玄菟太守の王頎を高句麗の北にあった夫餘に派遣し、軍糧の提供を受けている。

*6:現在、「毌丘倹紀功碑」は遼寧省博物館に収蔵されている。

*7:馬面は城壁の外に凸字形に張り出したもので、防御の強化のための施設。