モンゴル高原東部に居住していた契丹族が、狩猟等に用いた犬。渤海を経由して平安時代の日本にももたらされている。
契丹族と犬
モンゴル高原東部の遊牧民である契丹族は、狩猟や遊牧動物の管理のために犬を用いた。それは「契丹犬」とよばれる有能な犬だったとされる。
14世紀に編纂された遼朝(契丹)の歴史書『遼史』には、猟犬の記載が多いという。たとえば興宗(耶律只骨)時代の1053年(天喜元年)九月庚寅には、「猟、遇三虎、縦犬獲之」とある。これは皇帝が自ら参加した大規模な狩りの際のものであり、猟犬たちに包囲されて攻撃を受けた三匹の虎はついに抵抗する力を失い、最終的に虎は捕獲された。狩りにおける猟犬たちの貢献がうかがえる。
また遼朝(大契丹国)の太祖耶律阿保機と皇后述律平の陵墓である遼祖陵からは、一対の石人像*1と石犬像がみつかっている。契丹には墓の中に石犬を入れる習慣があり、遼祖陵の石犬像からは、当時の契丹犬の姿をうかがうことができる。
石犬は寝そべった状態の姿であり、長い口と尖った耳、前足を合わせて前に伸ばし、頭は両足の間に伏せている。石犬の首と胸は太く、腰は細くて丈夫で、背筋からお尻までのラインはしなやかで力強く、足は長く爪は鋭い。長い尾は後ろ足に寄り添って垂れ下がっていて、その先端はカールしている。頭から尾までの長さは約1.7メートルとされる。
渤海を経て日本へ
弘仁十四年(823)十一月、高貞泰を大使とする渤海使101名が加賀国に来航。しかし雪が深いため平安京から存問使が派遣されず、代わって加賀国守の紀末成と掾の秦嶋主が慰問を担当した。この時の渤海使の入京は許可されなかったが、翌天長元年(824)四月、渤海の信物と大使高貞泰らの「別貢物」、それに「契丹大狗」2頭、「㹻子(子犬)」2頭が加賀から平安京に送られている。渤海から贈られた犬は、同月に淳和天皇が神泉苑に行幸した際に苑の中で鹿を遂っているので(『日本後紀』巻32)、猟犬であったと思われる。
この「契丹大狗」は、モンゴル高原東部からもたらされた契丹犬であると推定される。『新唐書』渤海伝は、渤海王都から外国へ向かう際の幹線道の一つとして、扶余府へ至る「契丹道」をあげる*2。
一方で『新唐書』渤海伝には「扶余の故地もて扶余府と為す、常に勁兵を屯して契丹を扞(ふせ)ぐ」ともあり、渤海は扶余府を対契丹の軍事的要衝としていた。とはいえ、「契丹大狗」が日本に贈られていることから、少なくとも民間レベルでの通交があり、契丹と渤海に人や物の移動があったことがうかがえる。
ポシェット湾北岸に位置する渤海時代の都城遺跡であるクラスキノ古城*3からは、フタコブラクダの形をしたペンダントが出土している。フタコブラクダはモンゴル高原に住むラクダであり、ラクダの隊商がモンゴルから日本海沿岸にまで来ていたことがうかがえる*4。