13世紀、金国の武将・蒲鮮万奴が建国した東夏国の城郭都市。現在の中国吉林省延辺朝鮮族自治州図們市長安鎮に所在する城子山山城趾に、比定されている。
東夏の建国
1215年(建保三年)、蒲鮮万奴は耶律留哥の反乱鎮圧のため遼東に派遣されたが、同地で自立して大真国を興した。しかし翌年、モンゴルに降伏。その後、本拠地を女真族の故地である上京路の東部に移し、東夏ないし東真の名称で自立を続けた。東遷後の根拠地となったのが、南京と開元の二城だった。
城子山山城址の防御機能
現在のところ、城子山山城址が東夏の南京であったと推定されている。同城址は、豆満河の支流である海蘭河と布爾哈河の合流点北側の山上に立地している。中央がすり鉢状にくぼんだ丘陵全体を取り巻くように楕円状に城壁がめぐり、周長は4454メートル。城壁は自然石を積んで築いてあり、最大で高さ3メートルに達する。地形に合わせて屈曲を付けることにより、横矢掛けを可能にし、防御性を高めている。
北側には二本の谷が入り、その谷口それぞれに城門が設置されている。この二門には、甕城*1が設けられている。さらに地形を利用して、門の両側が前に張り出す形となっており、横矢掛けを可能にしている。門はその他に、南西部と南部にもあり、全部で4ヶ所となる。
城郭内部と都市の性格
城郭内部には、階段状に平場が作り出されており、そこに瓦葺き礎石建物が配置されていた。宮殿址と考えられている。それ以外に住居が密集する地区が、数ヶ所確認されている。
また城内からは、陶磁器、玉器、鉄製品など多数の遺物が採集されている。特に東夏の年号である大同と天泰年間の紀年のある銅印と青銅製の箱蓋が出土しており、その中に「南京路勾当公事之印」が含まれる。このことが、城子山山城址を東夏の南京とする説の有力な根拠となっている。
モンゴル軍の侵攻
1233年(天福元年)、モンゴル軍の侵攻に対し、東夏の建国者・蒲鮮万奴は南京で抗戦した。『元史』石抹阿辛伝には、攻城の様子が記載されている。モンゴル軍は南京を包囲したが、「城堅如立鉄」と記録されたように非常に堅固であった。そこで西南隅から登って「飛櫓」を破り、そこから大軍を攻め込ませて南京を落としたという。この戦いで蒲鮮万奴は捕虜となり、東夏は滅亡した。
参考文献
*1:主要な門に付属する施設。門の外側に、鍵手状の城壁を付属させて小区画を作り、さらにそこに門を設置したもの。日本の城郭の外枡形に近い