沼田小早川氏庶子家・梨子羽氏の当主。官途名は中務大輔。沼田小早川春平の三男で、則平の弟。沼田荘梨子羽郷北方を与えられ、庶子家・梨子羽氏の初代となった。
沼田本荘梨子羽郷
鎌倉期、小早川氏の初代・遠平が沼田本荘・新荘・安直郷を獲得し、養子・景平に継承。建永元年(1206)、このうち沼田本荘と安直郷の地頭職が景平の子茂平に譲られた*1。茂平は沼田本荘の主要地域を三男・雅平に相続させるとともに、船木郷を長男・経平に、新たに獲得した都宇竹原荘と梨子羽郷地頭門田五町を四男・政景に、そして梨子羽郷を長女・犬女(尼浄蓮)に与えた。
しかし鎌倉末期の元弘三年(1333)、梨子羽郷内にかかわって小早川氏に内紛があり、三つ巴の相論となった結果、当地は闕所として南六波羅探題・北条宗宣の知行所となってしまった(「楽音寺文書」「東禅寺文書」)。この間、梨子羽郷は北方と南方に分割されたとみられる。
南北朝期に入ると、梨子羽郷南方は竹原小早川氏の所領となり*2、北方は沼田小早川惣領家のものとなっていた。
時春が与えられた梨子羽郷北方は、室町期*3の「沼田小早川氏一族知行注文」に、350貫文の所領規模であったことがみえる。これは椋梨氏・土倉氏の400貫文、小田氏の370貫文に次ぐものであった。
惣領家による佛通寺建立
時春の父春平は応永四年(1397)、禅僧・愚中周及を迎えて佛通寺の建立を開始した。南北朝期に一時弛緩した一族の団結を強化する意図もあったといわれる。春平は応永九年(1402)正月に死去するが、造営事業は跡を継いだ則平(時春の兄)によって続けられた。
応永二十二年(1415)二月、佛通寺仏殿立柱に際し、則平以下一族・被官人らが馬25疋を奉加した。そのリストには、時春とみられる「梨羽殿」も1疋奉加していることがみえる(「小早川家文書」)。同二十三年(1416)五月に仏殿は完成した(「仏通禅寺住持記」)。
応永三十一年(1424)十月には、方丈が落成。仏殿立柱以上に多くの一族・被官人、さらには沼田市の土倉商人らも奉加に名を連ねた。「梨羽殿」も則平や小泉氏、浦氏、船木氏らと同額の1貫文を奉加している(「小早川家文書」)。
則平死後
永享五年(1433)正月、兄則平が61歳で死去。惣領家の家督をめぐり、則平長男の持平と次男熈平が争う事態となり、家中も割れた。
時春はこの頃、家督を熈景に譲っている。永享十二年(1440)四月、熈景が梨子羽郷南方の楽音寺に寄進を行っているので(「楽音寺文書」)、少なくともこれ以前の隠居と考えられる。
嘉吉年間(1441〜44)、時春は愚中周及の弟子である諾渓和尚を招き、梨子羽郷北方と日名内を結ぶ上谷に吉福寺を建立したという。同寺に残る近世の位牌によれば、時春は文安四年(1447)十一月二十日に没した。